田町キャンパスの記念碑を巡る

東京科学大学の田町キャンパスには附属科学技術高等学校とキャンパス・イノベーションセンター東京があるが,元を辿れば東京高等工芸学校の校舎があったところだ.東京高等工業学校の工業図案科が1914年に廃止となったことを遺憾とする当時の工業図案科長だった松岡壽らが中心となって,1921年に東京高等工芸学校を設立して図案科を復活させたことが始まりだ.そして東京高等工業学校附属職工徒弟学校も1924年に東京高等工芸学校に移管されて附属工芸実修学校 (1944年に附属工業専修学校,1949年に附属工芸高等学校と改称) になった.

東京高等工芸学校は1944年に東京工業専門学校と改称したのだが,1945年の空襲で焼失すると当地での再建を断念し,千葉県松戸市に移転して千葉大学工芸学部 (現在は改称されて工学部) となった.附属工芸高等学校 (千葉大学東京工業専門学校附属工芸高等学校) と附属電波工芸高等学校 (千葉大学東京工業専門学校附属電波工芸高等学校) については1951年に東京工業大学に移管され,田町キャンパスに東京工業大学附属工業高等学校が誕生した.その後,2005年に東京工業大学附属科学技術高等学校への改称,2024年10月に東京科学大学附属科学技術高等学校への再改称を経て現在に至っている.

1951年の附属工業高等学校創設までの道筋はかなり複雑だ.東京工業大学附属工業高等学校は本科職工系と本科電波系に加え,専攻科が加わった合併によって誕生したからだ[1, 2, 3, 4].

本科職工系については1886年に京橋区木挽町 (現在の東銀座) に誕生した東京商業学校附設商工徒弟講習所・職工科に始まる (商工徒弟講習所には,職工科,夜学科,別科があり,別科は東京商業学校予科で,夜学科は開設されなかった[5, 6]).それが1890年1月に東京商業学校 (現在の一橋大学) から東京職工学校 (現在の東京科学大学) に移管されて蔵前に移転し,東京職工学校附属職工徒弟講習所になった.さらに8月には東京工業学校附属職工徒弟学校に改称され,その後の再改称によって東京高等工業学校附属職工徒弟学校になった[注1].東京商業学校から東京職工学校への移管によって,職人の子弟に手工業を教える講習所から,近代的な大工場の職工を養成する徒弟学校へとその目的も変化したのだ[6].1923年の関東大震災で東京高等工業学校は蔵前から大岡山に移転したが,附属職工徒弟学校の授業は芝浦 (現在の田町キャンパス) の東京高等工芸学校で行われた.

1924年に職工徒弟学校は東京高等工芸学校に移管されて芝浦に移転し,東京高等工芸学校附属工芸実修学校になった.その後,1944年に東京工業専門学校附属工業専修学校と改称され,1949年には千葉大学東京工業専門学校附属工芸高等学校へと再改称された.そして1951年になって東京工業大学 (現在の東京科学大学) に移管されると,合併によって東京工業大学附属工業高等学校が創設されたのだ.

本科電波系については,文部省および陸・海軍省の要請により1943年に東京高等工芸学校の電気通信専修科として創設されたものが,1949年に千葉大学東京工業専門学校附属電波工芸高等学校となり,それが1951年に東京工業大学に移管されて附属工業高等学校に合併された[注2].

専攻科については,1899年に開校した東京工業学校附設工業教員養成所附属工業補習学校 (1902年に東京高等工業学校附設工業教員養成所附属工業補習学校,1910年に東京高等工業学校附属工業補習学校と改称) が始まりだ[注3].修業年限は2年で,勤労者を対象とする夜間に授業が行われる教育機関である.1921年に財団法人協調会に移管されて蔵前工業専修学校に改称され,1926年には東京高等工学院と再改称され,財団法人手島工業教育資金団への再々移管を経て,1951年に東京工業大学に集約されて附属工業高等学校の専攻科になった.なお,専攻科は2010年に廃止となっている.

東京高等工業学校附設工業教員養成所は,1910年から1919年の間は特に多くの工業学校教員を輩出し,その割合は工業学校有資格教員の約30%にも及んだ[7].本科と速成科があり,本科生 (入学資格は尋常中学校あるいは尋常師範学校卒業以上の学力で17歳以上) の大部分は師範学校の卒業生であり[8],速成科には20歳から30歳の実業者が入学した[注4].そもそも東京職工学校として始まった本学の目的は,廃止された製作学教場の復活だ[注5].工業技術教育によって,実践的な技術者と職工を養成して近代工業の発展を目指すことが狙いだから (技術官僚の養成については既に帝国大学工科大学が担っていた),職工の教育に必要な教員の養成も必要なのだ.

田町キャンパスの外 (田町駅東口交差点角の敷地のキャンパスを囲む塀の外側) には東京高等工芸学校創設の地を示す標柱と説明板 (港区教育委員会) がひっそりと建っている.そして,工芸産業教育発祥の地として建立した聖火を中心にマーキュリーの羽をあしらい,ハンマーと筆を組み合わせた校章をかたどっている青銅と黒御影石の碑がその後方に見えると書かれているが,実際には垣根が遮るため垣間見ることができるのはそのほんの一部だ.

塀の内側 (田町キャンパスの南東隅) には,東京高等工芸学校・東京工業専門学校・千葉大学工学部の同窓生が2001年に創立80周年を記念して建立し,本学に寄贈した「東京高等工芸学校創設の地」と記した記念碑がひっそりと建っている.また,構内には専攻科設立の地の碑が置かれているが,その上部に鎮座するのは東京工業大学のシンボルでもあった燕のマークだ.そして芝浦口の公衆トイレの脇を眺めれば,1925年に日本初のラジオ電波が東京放送局によって図書室から送り出されたことを示す日本放送協会による放送記念碑がある.そしてその両脇にあるのが日本放送協会の説明板と東京高等工芸学校の沿革の説明板である.

本学には,学部,修士課程,博士課程が設置されているが,これは新制東京工業大学が誕生した1953年以降のことだ.それ以前の旧制東京工業大学 (1932~1952) には本科に加えて,選科,附属高等工業教員養成所,そして戦時中の短期間だが工業技術員養成所と専門部が存在した[注6].選科は規定の学課の一部のみを選んで学ぶ課程で,本科に準ずる課程として本科の欠員を埋め合わせる形で募集がおこなわれた.1888年の規定は,実業者もしくはその子弟の選科への入学を許すとしているが,その後,実業者ではなく学力不足で正科に入学できなかった者が大勢を占めるようになったため,1894年に選科は廃止されたとの記録がある[1].しかし,不思議なことに廃止されたはずの選科生はその後も存在していて,1901年には外国人留学生を選科生として入学させている.1908年においても正科生593名に対し,55名の選科生が在籍していて,1929年の旧制東京工業大学の規定にも外国人留学生および実業者等を対象とした選科生制度の記載がある.実際には東京職工学校から旧制東京工業大学までほぼ継続して存在した制度だったようだ.

東京工業学校 (1890~1900) および東京高等工業学校 (1901~1931) の時代には,陶器瑠璃工科や窯業科といった本科に加え,選科と附設工業教員養成所,そして修業年限の短い速成科,附属職工徒弟学校と附属工業補習学校も設置されていた.東京科学大学に限らず,科学技術高等学校や現在の千葉大学も幾多の組織変更と改称を経て現在に至っている.

[注1]  1886年の尋常小学校の修業年限は4年だが,1907年に修業年限を6年に延長する改正が行われ,1908年度より実施された[9].尋常小学校は義務教育だが,その修了後に進学する高等小学校は義務教育ではない.高等小学校の1886年の修業年限は最長4年だが,1907年からの修業年限は2年に短縮された.高等小学校を卒業すると就職や家業を継ぐ者が多いが,徒弟学校を含む工業学校,農業学校,商業学校,商船学校といった実業学校への進学,そして経済的な事情から旧制中学校への進学を断念した成績優秀な生徒の進学先には学費が無料で全寮制の師範学校が用意されていた.なお,6年の尋常小学校を卒業した男子は受験によって5年制の旧制中学校への進学 (女子は高等女学校に進学) も可能であり,高等小学校にはその受験に失敗した生徒も進学した.旧制中学校を卒業あるいは4年を修了した生徒の主な進学先は旧制高等学校や専門学校などの高等教育機関であり,2年修了で師範学校への進学も可能であった.帝国大学入学の予科教育が行われた旧制高等学校の定員は帝国大学の定員とほぼ同数であったので,3年間の予科教育を修了した生徒の帝国大学への進学は専攻を選ばなければ保証されていた.また,旧制高等学校には3年間の帝国大学予科教育に加えて,当初は4年間の専門学科教育 (工学部など) のコースも存在したのだが不振のため廃止された.当時の技術家の階級は技師,技手,職工長,職工の4階級で,工科大学は50円,東京工業学校は25円,工手学校・地方工業学校は12円,徒弟学校は日給25銭という給料に歴然たる格差がある4種の学校で十分だったからだ[10].実際,1898年の手島精一の言を借りれば,学校系統を軍に例えて,徒弟学校と補習学校は卒,工業学校は下士官ないし士官,工科大学は将校を作るところだと認識されていたようだ[11].東京工業学校附属の職工徒弟学校は1890年に設立され,それを雛型にして1894年以降,全国に設立された徒弟学校は高等小学校卒 (後に尋常小学校卒に変更) 以上を入学させるもので (いずれにしろ入学者は12歳以上),修業年限は6か月以上で4年以下と柔軟性があった[5, 6, 12].1905年には46校,1912年には107校と徒弟学校は増加したが,学科別の生徒数の内訳は染織,機織,裁縫,造花,養蚕,手芸などの女子職業学校の生徒数が1905年に40%,1912年には67.7%と大多数を占めた[12].貧民層の子弟は年季徒弟奉公,経済的に余裕があれば旧制中学校に進学するから,手島精一はその中間層の子弟に徒弟学校を含む実業学校への進学を勧めた[5, 6].年季徒弟奉公では教えられることのない修身や読み書きを,旧制中学ほど学費をかけることなく学べるからだ.

[注2] 1943年に文部省と陸・海軍省は無線技士養成教育の充実のため,私立の電気通信技術者養成学校22校を統廃合して官立の東京高等工芸学校電気通信専修科を上石神井と上目黒に発足させた[1].22校の在籍2万余名から約500名を選抜して始められたものである.1944年には東京工業専門学校附属電波技術専修学校に改称し,上目黒校舎の使用を解消して上石神井に集約した.1945年には東京工業専門学校附属電波工業学校と再改称され,1946年には上石神井から松戸市に移転した.その後,1948年に東京工業専門学校附属電波工芸高等学校となり,1949年に千葉大学東京工業専門学校附属電波工芸高等学校となった.

[注3] 専攻科のルーツである実業補習学校は,高等小学校や旧制中学校などに進学しない尋常小学校卒業程度の勤労者を対象にした中等教育機関として誕生したものである[13].実業補習学校には,工業補習学校,農業補習学校,水産補習学校,商業補習学校,商船補習学校などがあり,平日の昼間に限らず休日や夜間の教授も認められ,修業年限は3年以内であった.設立にあたっては工業補習学校による近代的な産業育成の狙いがあったのだが,盛んだったのは尋常小学校に附設された農業補習学校であった.ほぼ無料で教育を受けられることが実業補習学校の利点だが,設備や教員配置は劣悪であったとされる[14].その後,工場が選抜した職工を補習学校での「適材教育」によって基幹職工に養成する制度が東京で始まり,1906年には東京瓦斯会社30人,恵比寿染工場10人の職工教育が東京高等工業学校附設工業教員養成所附属工業補習学校に委託された[12].ただし,技術者ならびに基幹職工の養成に徒弟学校や工業補習学校は概して不振であり,1888年に創設された工手学校 (現在の工学院大学) などの工業各種学校や企業が設置した工場学校が効果的であったとされる[6, 12].

[注4]  東京工業学校の工業教員養成所は1893年に開設された.開設当初,修業年限2年の本科は金工科,木工科,染織工科,窯業科,応用化学科の各学科からなり,修業年限1年の速成科は金工,木工,染色,機械,陶器の5科からなっていた.1902年には東京高等工業学校附設工業教員養成所,1929年に東京工業大学附属工業教員養成所となり,1931年の在校生の卒業とともに廃止となったが,1942年に附属高等工業教員養成所として戦時下における高等工業学校の教員養成の目的で復活し,1952年に再度の廃止となった.その後,1961年に再び新制東京工業大学附設の工業教員養成所 (専門課程に加えて教職課程を履修する) として復活し,1969年まで存続した.当時の師範学校と同様,工業教員養成所には経済的な補助があったようで,1907年に東京高等工業学校附設工業教員養成所工業図案科に入学し,1911年に卒業した日野厚は年間72円の学費が国から補助されていた[14].5年間の実業学校の教職に従事する義務はあったものの,その時の授業料は年間25円,参考書類が22円,教材費が40円程度だったので経済的に大いに助かったといわれる.実際,1894年に制定された工業教員養成規定では東京工業学校に工業教員養成所を附置し,その生徒 (修業年限が2年の本科は100名の生徒定員,1年の速成科は40名) には学資を支給し,卒業後には学校の教員になることが義務付けられていた[13].

[注5] 近代的な工業技術教育を狙いとする製作学教場が,ワグネルの建議によって東京開成学校に1874年に設置されたが,1877年に東京開成学校が東京医学校との統合によって東京大学 (1886年に工部大学校を吸収合併して帝国大学,1897年に東京帝国大学,1947年に再び東京大学に改称) が誕生する際に廃止となった.高尚な学問を学ぶ大学に職工長その他の技術者を養成する製作学教場は不要と判断されたのだ.また,1876年には新潟学校に製作学教場とほぼ同一の教育内容の百工化学科が創設されたが,入学志願者を十分に確保することができず4年後に廃止されている[16, 17].そして工部省が管轄する工部大学校では,基礎科目を学ぶ2年間の予科,専門科目を学ぶ2年間の専門科に続き,工場や工事現場で現場実習を学ぶ2年間の実地科が設けられていたが[18],工部省事業の民間払い下げ等によって実習現場は徐々に失われ,帝国大学工科大学 (1919年に工学部に改称) に統合されると現場実習の機会は限定的となった[19].これを遺憾とするワグネルと手島精一らの働きかけによって東京職工学校が1881年に設立され,実学を重視して中等程度の現場技術者とその指導者の育成を図ることとしたのだが,その実態は入学資格を尋常中学校卒業程度として数学,物理,化学などの基本的な学理を重視する高等教育を行う専門学校 (帝国大学とその予科の高等学校以外の高等教育機関としては,高等師範学校と専門学校があった) であり,職工になった卒業生は1人もいないと言われている[20].しかも,実学重視の教育方針のもとで,その卒業生には殖産興業を担う近代的工業育成への寄与が期待され,職工長や工場経営者などの中級技術者の養成を当初から意図されていた[5].1882年の学則では数学,物理,化学,用器画,自在画,修身などの講義科目が設けられた[21].修身の教育が行われたのは晩年の渋沢栄一が説いた商業道徳に関係したもので,サイコパスを排除するだけでなく,技術者・科学者が厚黒学に染まることを避ける狙いがあったものとも思われる.1885年には学科目に英語が新設された.学理を実地と結合する実験工場と工場実習もその頃に始まり,硝子場と陶器場が開設されたのは1885年12月のことだった[21].そして読み書きもできる職工の養成を目指す職工徒弟学校,現場の職工 (職工の多くは義務教育を終えたが,高等小学校などへの進学を断念して年季徒弟奉公として手工業に従事している職人) の技能向上を目的に夜間の教育を施す工業補習学校に加え,工業教員養成所を設置して職工教育に従事する教員の養成を図った.このようにして年季徒弟制の伝統産業から工場制の近代工業への脱皮を図ることを期待したのだが,その効果は疑問視されている[12].年季徒弟制の手工業が広範囲に存在していた時代に,全国に設立された職工徒弟学校の人気は低く,工業補習学校については通学に難があったからだ.日本で近代的な工業技術教育が始まった頃の主要な輸出産業は,農作物の茶,鉱産物の銅,伝統工業製品の生糸,陶磁器,漆器そしてマッチであった.徒弟学校による技能者養成によって,伝統産業の機械化・近代化を目論んだのだが効果は小さかった.機械化の進んだ工場制工業への脱皮は,官営の繊維工業や重工業の工場が経営不振によって払い下げられ,民営化によって活力を得てからであろう.工業技術教育の効果が現れ始めたのは,日清戦争後に軽工業 (綿糸,製糸,製紙,織物,製糖など),日露戦争後に機械産業 (造船業,製鉄業など) が発展した頃からだったのだ.まず徒弟学校が増加したのだが,それは過渡的な現象であり,その後は近代型工業の職工を供給する工業学校 (合成染料を用いた染色技法を学ぶための染織科に始まり,木工科や金工科等の伝統工業に依存する学科が続いたが,大正期になると機械科,建築科,電気科,応用化学科などの近代的な重工業部門に対応する学科が多く設置されるようになった[6, 20]) に重点が移り,徒弟学校による技能者育成の必要性は低下した.さらに大工場が通学に難のない企業内での技能教育を行うようになり,職工徒弟学校や工業補習学校の役割は工業学校や企業が設置した工場学校によって代替されたのだ[5, 12].明治の初期に始まった教育の重点は高等教育と初等教育で,中等教育は遅れて始まったのだが,近代国家構築のためには産業の発展が不可欠であり,その実現に不可欠な中等職業教育の重要性を認識していたワグネルや手島精一らの構想は教育によって近代産業を育成することだった.しかし,歴史的な経緯を辿れば,手工業に従事して道具を扱う職人から近代産業に従事して機械を扱う職工への進化は,産業構造の進化に連動したかのようにみえる.この産業構造の進化を先導した官営事業払下げの影響は確かに大きいのだろうが,それを支える技術教育の近代産業育成への寄与を明確に示すことは難しそうだ.一般に直接的な寄与は理解しやすいが,間接的な寄与の定量的評価を行うことは容易ではなく,それを説明して理解を得る作業はすこぶる難作業になりがちなのだ.短期的な成果の得られる小手先の施策は説明責任を全うするには好都合だが,必ずしも競争力強化に有効とは限らないので,持続的な成長にはつながりにくい.競争力強化につながる長期的観点からの施策は,短期的な成果としての評価が困難だから,その実施には強いリーダーシップが必要となるのだ.なお,1903年に制度化された専門学校 (1つの学科を教授する医学校,法学校,外国語学校などで,多くは公立の医学専門学校,明治時代初期に設置された文部省所管外の専門教育機関,洋学私塾や藩校といった幕末から明治初期に起源を持つ学校が含まれる.これは1873年に制定された外国人教師が教授する高尚な学校を専門学校とする規定からの変更でもあった) は医学,法学,文学,芸術,宗教,体育の分野を担い,工業,農業,水産,商業,商船の分野は高等工業学校,高等商業学校,高等農林学校といった実業専門学校が担った.専門学校の修業年限は3年以上だが,1年半程度の予科を設けると大学と称することが認められたので,多くの専門学校ではステイタスの上昇を狙って予科が設けられた (東京職工学校設立時に設けられた予科は1886年には早くも廃止となり,東京高等工業学校には予科がなかった.しかし,多くの医学,法学および外国語学校では予科が設けられ早々と後の大学昇格を果たした).帝国大学以外の大学設立が正式に認められたのは1918年で,それ以降,専門学校は次々と大学に鞍替えした.東京高等工業学校が東京工業大学に昇格したのは1929年であり,決して早い方ではなかった[22].

[注6] 旧制東京工業大学には臨時工業技術員養成所と附属工業専門部が附設されたことがある.修業年限が1年の臨時工業技術員養成所が1940年に設置され,機械科,化学分析科,窯業科が置かれたが1946年に廃止された.これは既設の臨時工師養成部,臨時化学分析工員養成部に新設の臨時窯業工員養成部が統合されたものだ.したがって,臨時工業技術員養成所窯業科の卒業生は1941年から1946年までの6年間に限られる.東京工業大学附属工業専門部 (機械科,電気科,電気通信科,航空機科,金属工学科,化学工学科の6科) は1944年に設置され,1945年には窯業科が増設された.生産現場における労働力不足,技術者不足を打開する目的で設置されたのだが,終戦を迎えて1948年に廃止となった.東京工業大学附属工業専門部窯業科の卒業生は1948年のみに限られる.

文献
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