近代デザインと工業図案科

近代デザインは19世紀末に出現した[1a, 1b, 1c, 1d].ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動 (Arts and Crafts Movement) が嚆矢で,アール・ヌーヴォー (Art Nouveau),アール・デコ (Art Déco) そしてバウハウス (Bauhaus) が続いた.職人の手作りによる装飾的な工芸品から過度な装飾を削ぎ落した大量生産に適するデザインへの転換がこの間に起こったのだ.産業革命以前の手工業による少数の権力者のための鑑賞に供する伝統工芸品から,産業革命以降の工場生産による多数の大衆のための実用に供する量産品への転換に伴う変革である.バウハウスは1919年にドイツ (ワイマール共和国) で設立された近代的デザイン教育の学校で,1933年に閉校となるまで14年間だけ存続したのだが,その教育理念である芸術と技術の融合は大量生産される工業製品や近代建築のシンプルで機能的なデザインとして現代まで継承されている.

デザインは美術から派生したものだが,実用的な工業製品を開発するにはその仕様を満たすための設計に加えて,使いやすさや顧客の満足度を高めるための設計も重要になる[注1].現代では建築設計や機械設計にデザインの要素が重要であることはよく認識されているが,本学が開校した頃には輸出陶磁器における図案の重要性が高く認識されていた[2].恐らく,このような事情で図案科が芸術系の東京美術学校と工業系の東京工業学校の2つの学校にほぼ同時期に設置されたのだと推察されるが,その後の図案科は工業系からほぼ消滅し,美術系学部の工業デザイン科などに引き継がれた.

伝統美術の振興をめざす岡倉天心とフェノロサの理念が具体化された東京美術学校の開校は1889年で,4科 (日本画,木彫,彫金,漆工) が設置された.1896年には西洋画と図案の2科が新設され,1899年には塑造科が設置された.1905年に行われた学科再編成によって7科 (日本画,西洋画,図案,彫刻,金工,鋳造,漆工) となり,1949年に東京音楽学校と統合して東京芸術大学に再編された.

中等技術教育を強化して近代産業の発展を図るワグネルや手島精一らの理念が具現化された東京職工学校の設立は1881年で,化学工芸科と機械工芸科の2科の本科とその予科 (終了年限は予科1年,本科3年の計4年) が設置された.なお,陶器玻璃工科が設置されたのは1886年である.この1886年は生徒募集が難航し,工業界からの人材需要も低いことから帝国大学の附属となり,本科を染工科,陶器瑠璃工科,製品科,機械科に分け,予科を廃して速成科を設置する組織改革を行った[3].しかし,翌1887年に早くも帝国大学の附属を解消したのは,帝国大学附属の措置によって期待された経費低減効果が小さかったからだ.

1890年に校長となった手島精一は校名を東京工業学校に改称し,化学工芸部 (染色工科,陶器玻璃工科,応用化学科) と機械工芸部 (機械科,電気工業科) の2部制とした.そして1893年に工業教員養成所,1899年に工業図案科 (附設工業教員養成所内には1897年に既に設置されていた) が設置された.その後,1901年には東京高等工業学校への改称が行われ,1929年には東京工業大学へと昇格し,2024年に東京医科歯科大学と統合して東京科学大学に再編された.

東京工業学校の工業図案科は東京高等工業学校への改称後も継続したが,東京工業大学まで継続することはなかった[4a, 4b, 4c, 4d].高尚な学問を学ぶ大学昇格には相応しくないとして1914年に廃止となったからだ.そして,当時の学生は東京美術学校の図案科に移転させられた.家電や自動車のみならずさまざまな工業製品の売れ行きにデザインの影響は大きく,意匠と設計を統合したデザインには芸術と工学の融合が必要であることをバウハウスに先立って工業図案科は体現していたのだが,高尚な学問を教える大学への昇格には障害になると判断されたのだ.

しかし,工業図案科長だった松岡壽はこれを遺憾とし,1921年に設立された東京高等工芸学校で図案科は復活した[注2].創立時の修業年限3年の本科には,工芸図案科,工芸図案科・工芸彫刻部,金属工芸科 (精密機械分科,金属製品分科),木材工芸科,印刷工芸科が設置された.東京高等工芸学校は第二次世界大戦中に東京工業専門学校と改称され,1949年の学制改革で千葉大学の工芸学部となり,1951年に千葉大学工学部に再編された.

近代産業の発展を目指すワグネルらの理念は,有用さよりも高尚さを優先する大学への昇格を目指すなかで次第に薄まっていったことは間違いなさそうだ.人間工学,フールプルーフ (fool proof) を考慮した安全設計,誰もが使いやすいユニバーサルデザインなどが注目されるようになったときには,既に工業図案科が廃止されてから久しかった.

芸術と技術の融合を教育理念とするバウハウスの後世への影響は世界的にも大きかったとされるが,同様な教育理念を有していた東京工業学校の工業図案科については,その理念に時代が追いついていなかったようだ[5].当時のデザインの対象は陶磁器,漆器,金属器,織物といった富裕層向けの零細規模の手工業であり,印刷技術の応用に適した大衆向けの大量生産品の市場が発達するまで待てずに工業図案科は廃止されたようである.

[注1] デザイン (design) はデッサン (dessin) と語源を共有するが,意匠以外に設計の意味もある.建築設計,機械設計,回路設計,システム設計などは製品開発に密接な関係のあるプロダクトデザインだ.プロダクトデザインで重要なのは製品の性能だ.使いやすさも重要だが,製品の高い性能を引き出すための形状が設計によって与えられる.材料設計も似た発想であり,通常は規格化された工業材料の中から適切な材料を選定することになるのだが,材料特性の組み合わせの最適化を追求するならば新規な材料の開発が必要となる場合もある.ただし,材料特性は独立変数ではなく化学結合や微構造に起因して相互に関連する変数だから,その組み合わせの自由度には限界があり,コスパの高い汎用的な材料が規格化されているのだ.無限の可能性のあるのはポスター,ウェブサイト,プロジェクションマッピング,コンピュータグラフィックスなどを包含するグラフィックデザインである.平面上に描かれるものならば色や形を自由に選択できるからだ.ファッションやインテリアデザインはこれらの中間であろう.一定の性能要件はあるが,必ずしも最高の性能は要求されず,機能より感性を重視したデザインに人気があるようだ.陶磁器やガラス器のデザインはどちらかと言えば感性重視だが,セメントや耐火物の材料設計では材料特性とコストが重視される.本学における工業図案科の設置は陶磁器や漆器・木工品,織物といった伝統的な工芸品の近代化と販路拡大に向け,印刷技術の応用に適した新たな意匠の開発とそれを担う人材の育成が必要と考えたためで,窯業科とは密接な関係があったとされる[6].

[注2] 松岡壽 (1862~1944) は1876年に工部美術学校に入学してアントニオ・フォンタネージに師事した後,国立ローマ美術学校で学んだ西洋画家である.その後,帰国して東京帝国大学工科大学講師,東京美術学校西洋画科講師などを歴任し,1906年に招聘されて東京高等工業学校・工業図案科の2代目科長に就任した.なお,初代の科長はウィーン美術工芸学校でデザインを学び特許局での意匠審査を本務としていた平山英三で,そのときの副科長がサンフランシスコのマークホプキンス美術学校とロンドンのニュークロス美術学校 (現在のゴールドスミス・カレッジ) でデザインを学んだ井手馬太郎である[7].

文献
1.例えば,(a) 阿部公正,世界デザイン史,美術出版社 (2012).
 (b) 藪亨,近代デザイン史,丸善 (2002).
 (c) 米田充彦,表面技術,デザインとは,74 [11] 544-548 (2023).
 (d) 日野永一,日本デザイン史の現況,デザイン学研究,1989 [72] 6-11 (1989).
2.長井千春, 宮崎清,大日本窯業協会雑誌の意匠標本にみる陶磁器デザインの変遷,デザイン学研究,54 [5] 1-10 (2008).
3.例えば,戸田清子,東京職工学校の成立と展開,奈良県立大学研究季報 22 [3] 61-92 (2012).
4.例えば,(a) 日野永一,アール・ヌーボーと明治のデザイン運動,デザイン学研究,42 [3] 41-48 (1995).
 (b) 緒方康二,明治とデザイン (東京高等工業学校工業図案科を中心に),夙川学院短期大学研究紀要,2 1-17 (1978).
 (c) 近代デザイン史に残る足跡:https://www.titech.ac.jp/public-relations/about/stories/modern-design-history
 (d) 東工大と千葉大の意外な関係:https://www.cent.titech.ac.jp/DL/DL_Publications_Archives/treasured_memo-3.pdf 
5.緒方康二,明治とデザイン (大日本図案協会と雑誌『図按』),夙川学院短期大学研究紀要,3 1-18 (1978).
6.工業図案科の設置と図案教育の重視:https://sciencetokyo-museum-archives.note.jp/n/n6bb2849fbb28
7.緒方康二,明治のパイオニアたち,デザイン学研究特集号,6 [2] 23-29 (1999).

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