陶磁への道 (後編:粘土からセラミックスへ)
カレドニアガラスは葉柄を加工した棒を倒木の穴に差し込み,それにカミキリムシの幼虫を噛みつかせて釣り上げる[1].ダーウィンフィンチはサボテンの刺を嘴に挿んで樹皮の内側に潜む虫をつつき出す[2a, 2b].チンパンジーはオオアリやシロアリの巣に小枝を差し込んで,それにアリやシロアリを噛みつかせて釣り上げる[3, 4].石を投げ,大きな枝を振り回す威嚇誇示行動,平たい石 (台石) の上にナッツを置いて,それを手に持った石 (ハンマー) で叩き割るナッツ割り行動もチンパンジーに見られる道具使用の例だ.これらの道具使用はチンパンジーの集団ごとに異なることから,集団内で文化的継承が行われたと考えられている.
フサオマキザルについても石を使ったナッツ割り行動の報告があるが,その観察例の多くは飼育下のものだ[5].カニクイザルは牡蠣の殻を石で叩き割り[6],ラッコは懐に忍ばせたお気に入りの石を使ってアワビや二枚貝の殻を叩き割る[7].そしてハシボソガラスはナッツ割りの新機軸を打ち出した.自動車の車輪の前方にクルミを置いて通過するクルマに割らせるのだ[8, 9].小枝などを加工した道具の製作や使いやすい形の石を選んで道具として使用する実例はさまざまな動物で報告されているが,石を加工して石器を製作した動物はヒトの祖先以外に知られていない.
240万年ほど前に現れたホモ・ハビリスはオルドワン石器と呼ばれる原始的な打製石器を製作した.これは手に持った石を別の石に叩きつけ,石を割って石器に加工したもので単純な形状のものだったが,その後に登場したホモ・エレクトスが使用したアシュール石器は精巧な作りのものだ.そしてネアンデルタール人の石器はもっと洗練されたもので,先端を尖らせた尖頭器を槍先に取り付けて狩猟に用い,母岩からはがされた剥片をナイフとして肉片の切り取りに用いたと考えられている.
ホモ・サピエンスは石器に加えて,銛や釣り針などの漁労具を骨角器でこしらえ,農耕が始まると磨製石器を作り始めた.樹木の伐採に使用する石斧や土掘りの道具には角が丸い磨製石器が適しているからだ.これはセラミックターボチャージャロータの翼の先端を丸めたことが,流体工学的な性能向上より燃え残りの煤の粒子と衝突して翼の先端部が欠けることを防止する設計を優先したことと同じ発想だ.
遺跡の発掘調査は石器や骨角器を道具として使用したことを裏付ける根拠を得る有力な手法だが,木の枝や蔓,動物の皮などを加工して道具を製作したことを裏付けるための手法としては限界がある.だが,遠い祖先の道具使用の水準はカラスやチンパンジーより高度に発達したことに間違いはないだろうから,彼らがこれらの材料で道具を製作していたことは容易に想像可能だ.
直立二足歩行を始めた人類の祖先は,堅い木の枝を棍棒として,そして手ごろな大きさの石を投石に活用してサバンナでの安全確保と小動物の狩猟に利用し,蔓を編んで製作した篭を採集生活に利用していたことは容易に想像できるだろう.篭の編み目が粗ければ,粘土を塗ってそれを塞ぐ工夫をしていたかもしれないが,このようにして日干しレンガを発明していたとしても,その太古の痕跡を発見する可能性は限りなく小さいだろう.
その後,動物の毛や植物繊維を撚って縫い糸を作製し,動物の毛皮を剥いでそれを糸で縫い合わせて衣服を制作したことも想像は容易だ.困難なのはそれを裏付ける考古学的な証拠の発見だ.焚火の痕跡を根拠とする火の使用についても,ネアンデルタール人が火を使用していたことには間違いはないものの火の使用がホモ・エレクトスのどの時代にまで遡れるかについてはさまざまな論議がある[10, 11].その幽かな痕跡をめぐる解釈が大きな議論となるから容易には決着しないためだ.
土器製作の始まりは明らかではないが,エジプト,メソポタミア,アナトリアでは8,000年前,中国では10,000年前,日本では12,000年前の土器が発見されている[12, 13].初期の土器は煮炊きや冷たい水の貯蔵などに用いる実用品であったろうが,その後の発展の1つの方向は装飾への進化だった.オリエントでは幾何学装飾文様を描いた彩文土器がつくられ,古代ギリシアでは表面に鉄分を含む泥漿で物語性のある絵画を描いた黒像式や赤像式の陶器が作られた.信濃川流域では表面に盛りあがる粘土の加飾を施した火焔式土器へと縄文土器の進化が起こった.そして古代中国では酸化焼成した土器 (紅陶) の表面に絵の具で文様を描いた彩陶 (中国の彩文土器),還元焔で焼成した灰陶 (紅陶より堅く実用的な生活土器) や黒陶 (炭素粒子が付着して黒色を呈する),カオリン質の高い粘土を用いた白陶が作られた.
野焼きによる土器の焼成温度は600℃から800℃程度だが[14],窖窯で須恵器を製造するときには還元焔で1000℃から1200℃の温度で焼成したと一般的には言われている[13].ただし,出土した土器の再加熱による寸法変化から推定した焼成温度は,縄文土器で550℃,須恵器では930℃だ[15].原料となる粘土にはさまざまな鉱物が含まれているが,野焼きの温度で焼成すると粘土の微粒子同士が焼結によって癒着して一定の強度を保つようになる.そして,須恵器を焼成する温度まで高めれば焼結 (sintering) が進んでかなり強固になる.さらに高い温度 (粘土の成分によって異なるが,おおむね1200℃以上) まで加熱すれば熔化 (vitrification) が起こり,普通の粘土に必ず含まれている長石が分解してガラス相を形成する.そしてさらに高い温度に達するとガラス相が増加して素地に透光性が現れるが,もっと高温になれば素地は熔融してしまってその形状を留めない[16].磁器の製造には焼結と熔化の双方が関与するから,高温焼成によってガラス相形成による透光性は認められても熔融しないような成分に配合した坏土が磁器製造には必要なのだ.
古代中国では土器から陶器,そして磁器への発展が急速に起こった.カオリン質の高い粘土が発見されたことが関係するようだが,その経緯は明らかではない.施釉陶器は殷代中期の墓から出土し,西周時代 (前11世紀頃) の墓からは白い胎土で青緑色の釉のかかった硬質の原始磁器 (原始青磁) が出土している[12].青磁は青磁釉 (長石釉にベンガラを2%程度加えた釉薬) を掛けた高火度焼成の陶磁器で,後漢時代に初めて製作されたと考えられている[17].
青磁の特徴は釉薬の色であるが,透明釉なので下地の色も透けて見える.釉薬の青緑色の外観を呈するようになったのは,青磁の素地に白い胎土が用いられた6世紀後半以降のようだ.鉄分の少ないカオリン質の高い白色粘土に灰釉 (透明釉) を掛けて焼成したものが白磁で,これは6世紀後半の華北地方で焼かれた.鉄分を含んだ青緑色の青磁釉と青みがかった透明釉の境界を厳密に区別することは難しいが,青磁の素地と釉薬に鉄分の少ないものを用いれば白磁になる[注1].白磁の生産が盛んになったのは隋以降の時代だが,化粧土を素地に施して透明釉を掛けたものから,白磁土を用いた生産に移行したのは晩唐期からのようだ.
白磁および青磁の製造技術は時代とともに進歩して品質は著しく向上したが,元の時代に青花磁器 (染付磁器の中国名) が作られると磁器の素地の表面に描く絵柄が重要になった.青花磁器とは白磁の素地にコバルト (呉須とよばれるコバルト鉱) で絵付けをして,透明釉を掛けて焼成したものだ.その上に低火度の鉛釉を用いてカラフルな上絵付を施した五彩磁器 (金彩を施したものは金襴手) は明の後期に主流となった[注2].景徳鎮で作られた青花磁器や五彩磁器はヨーロッパで人気があり,明の後期には夥しい数の中国磁器が海を渡ってヨーロッパの宮殿を飾った.その後の技術進歩は清の時代 (1720年代) に開発された粉彩あるいは琺瑯彩と呼ばれる技法だ.鉛を含んだ不透明な色ガラスを上絵付の顔料とすることで,グラデーションを付けるような絵画的な表現が可能となったのだ.技法は同じでも名称が異なるのは,景徳鎮ですべての工程が行われたものには粉彩と記名され,宮中に設置された工房で景徳鎮産の白磁に絵付けされたものには琺瑯彩と記名されたからだ.なお,ファミーユ・ローズ (Famille Rose) は,粉彩あるいは琺瑯彩として制作された磁器の輸出先での呼称だ.
景徳鎮の磁器は西ヨーロッパでの人気が高く,大航海時代になるとポルトガル,スペイン,オランダの商人は大量にそれを買い付けた.ところが明から清への王朝交代に伴う混乱の時代が訪れると,中国からの買い付けが困難となった.そこでオランダ東インド会社 (VOC) は仕入れ先を有田に変更した.実際,VOCが1650年から1757年までに輸出用に買い付けた有田焼 (肥前磁器) は約123万個に及んだ[18].
需要の大きな製品を安定供給するには自国内での製造が望ましいが,それが困難だったのは磁器製造に不可欠な白い粘土の鉱床を発見することが必須だからだ.1616年に李参平が磁器製造に成功したのは有田町泉山に陶石の鉱床を発見したからだ.そして,1710年のヨハン・フリードリッヒ・ベトガー (Johann Friedrich Böttger) による磁器の再発明も,カオリン鉱山を発見したから実現したのだ[注3].
他方,カオリンが入手できなければ,代用品を使って白い焼き物を製造することが次善の策だ.イスラム陶器はこの課題に挑戦した[12].酸化錫は鉛釉に溶解しないので,白い粒子が釉薬のガラス中に分散して白色を呈する.錫釉陶器は鉛釉に少量の酸化錫を配合した錫釉を陶器にコーティングして中国磁器に似せた外観を実現したものだ.そして白色のスリップ (化粧土:おもに白泥) の使用,フリット (ガラス粉末) を配合した軟質磁器の開発はいずれもイスラム (エジプトおよび西アジアを含むオリエント) が起源だ.ラスター彩の起源もイスラムで,白地の陶器の上に金属酸化物または硫化物を塗布してから低火度の還元炎で焼成すると金属光沢が得られるものだ.レコンキスタ以降にこの技術はスペインから西ヨーロッパ各地に拡がり,白い素地に鮮やかな絵を描く中国磁器に似せた錫釉陶器[注4]や軟質磁器[注5]が急速に発達したのだが,このような模倣技術はベトガーによって磁器が再発明されると衰退に向かった.
ジャポニズムは19世紀後半にヨーロッパで流行した日本趣味のことだ.幕末の日本からヨーロッパに持ち出された浮世絵への熱狂に始まるのだが,万国博覧会 (1867年のパリ万国博覧会,1873年のウィーン万国博覧会,1876年のフィラデルフィア万国博覧会など) への陶磁器を中心とした工芸品の出品を通じて日本文化への関心が高まったことも追い風になった.明治時代の日本の輸出品は,茶と生糸に次ぐ第3位が陶磁器だったから,輸出用陶磁器の産業育成は殖産興業の国策だったのだ[注6].横浜・東京に多くの絵付師 (画家の転職も含む) や陶工が集結し,絵付けした磁器を横浜港からの輸出したのだが,しばらくしてヨーロッパのブームは去って19世紀末にはアール・ヌーヴォーの時代になった.
磁器のアール・ヌーヴォー様式は,1880年代にセーブル窯やロイヤル・コペンハーゲン窯で開発が進められた新たな釉下彩による彩色磁器,窯変釉や結晶釉による新たな磁器開発に代表される.ワグネル (Gottfried Wagener) は1883年に始めた釉下彩による軟質磁器 (旭焼) を1885年に出品し (製造は江戸川製造所)[19],ロイヤル・コペンハーゲンは釉下彩を用いた作品を1889年のパリ万国博覧会に発表した.高浮彫による輸出磁器を制作していた宮川香山も時流に乗って1882年から釉薬研究に没頭し, 1887年以降の真葛焼の特徴的な作風は釉下彩となった.そして1900年のパリ万国博覧会では多くの日本製陶磁器がマンネリ化を指摘されて低い評価を受けるなかで宮川香山の釉下彩作品は大賞を受賞した[20].ジャポニズムの時代に絶賛された日本の美術工芸品の評価がアール・ヌーヴォーの時代になると急落したのは,国家主導の輸出政策が世界のデザインの潮流を見逃していたからだ[21].なお,窯変釉は遷移金属イオンの酸化状態に依存する色彩変化を利用したもの,結晶釉は施釉後の冷却過程における熱処理によってガラス相から結晶を析出・成長させたものだから,結晶化ガラスの技術を釉薬に応用したものだ.釉下彩として使用可能な顔料も,施釉後の高温焼成に耐えるコバルトによる藍色の染付,鉄による褐色の鉄絵,酸化銅の還元焼成による釉裏紅といった伝統的な手法にそれまでは限られていた[注7].
19世紀末の曲線的で有機的なデザインが特徴のアール・ヌーヴォーは,20世紀初頭にはシンプルで幾何学的なアール・デコへと移り変わった.陶磁器デザインもそれに連動して,アール・ヌーヴォーのウィリアム・モリス (William Morris) が主導した工芸の革新を目指したアーツ・アンド・クラフツ運動 (Arts and Crafts Movement),それを継承したバーナード・リーチ (Bernard Howell Leach) や柳宗悦らの民芸運動を経て,個人作家が活動する時代と移り変わった.陶磁器は日用品に芸術の要素を取り入れる工芸の革新から実用を考慮しない芸術品の制作に再び進化したのだが,これは墳墓や宮廷に置かれていた実用に供しない陶磁器が美術館に置かれるように進化したことでもある[注8].
20世紀になって伝統的陶磁器の技術進歩は停滞したが,その技術は工業用陶磁器およびファインセラミックスの技術進歩に引き継がれた.高圧碍子や点火栓碍子は電気絶縁性を必要とする製品だ.フェライト磁石,チタバリ誘電体やPZT圧電体はその電気・磁気特性が重要だ.透光性アルミナの開発では気孔を極限まで少なくする焼結技術が研究され,炭化ケイ素や窒化ケイ素などの非酸化物系セラミックスの焼結技術,各種の高温超伝導セラミックスの探索,ダイヤモンドの高圧合成よび気相合成などの技術開発も進められた.
21世紀から過去を振り返れば,土器や陶磁器は陳腐な技術のようにも見えるが,19世紀の窯業は日本を支える輸出産業の一翼を担うだけではなく近代を象徴する産業技術であった.幕末の反射炉とそこで使用する耐火物から明治時代のポルトランドセメントと板ガラスおよび洋食器の製造技術によって殖産興業の一翼を担ってきたことは紛れもない事実だ.20世紀になると工業用陶磁器とファインセラミックスが躍進し,これらは日本の材料・部品産業を支えてきた.そうすると22世紀から振り返ったときの21世紀はどのような時代と映るのだろうか.ファインセラミックスを含む材料・部品技術が陳腐な技術になって新たな技術が花開く時代への転換期と位置付けられるようになるカウントダウンが21世紀の現在,既に始まっているのかもしれない.
[注1] 土器や陶磁器の色はほとんどすべての粘土に含まれる鉄の含有量とその酸化状態に支配される[16].還元雰囲気で焼成すると,酸化鉄の少ない粘土は還元されて明灰色に焼きあがるのだが,酸化第二鉄 (Fe2O3) が4%以上では暗灰色から青色になる.酸化雰囲気で焼成するときは,酸化第二鉄が1%以下のときは白色,1%から4%のときは象牙色から黄色,4%から7%のときは赤色に焼きあがる.ただし,1000℃以上の温度で焼成すると酸化雰囲気でも酸化第二鉄が還元されて酸化第一鉄(FeO) になるから白味を帯びた焼成色となる.鉄分の多い粘土を高温で酸化焔焼成すると暗色になるのは酸化第二鉄が還元されたためなのだ.副次的には,陶磁器の素地や釉薬の色は混在する他の不純物 (酸化チタンなど) の影響も受けるから,粘土の産地によって微妙に異なる焼成色の正確な解析は容易ではない.
[注2] 低い温度で施釉する鉛釉の歴史は古い.メソポタミアでは前2000年紀に鉛釉系の青緑釉・黄釉陶器が作られた[12].中国の戦国時代には,鉛釉を施した鉛釉陶器が出現した[22].700℃前後で焼成する漢代の鉛釉陶器は低火度焼成のため実用には用いられず,墓の副葬品として使用された[12].鉛釉に銅を加えれば緑色,鉄を加えれば褐色,コバルトを加えれば藍色に発色するから,鉛釉に酸化銅を加えれば緑釉陶器,酸化鉄を加えれば褐釉陶器ができあがる.唐代にはこれらの色釉を白磁に施釉した唐三彩が出現した.なお,唐三彩の影響を受けた奈良三彩は,白磁に似せた灰白色の素地 (須恵器) に白泥を化粧がけしたものに施釉して作られた.奈良三彩に使用された鉛釉は奈良時代の後期には廃れてしまったが,戦国時代になって千利休らの侘び茶に叶う楽茶碗で復活した.フランスでは12世紀に多孔性素地に鉛釉を施釉することが広まり[16],1542年頃に白色釉の組成を発見したパリッシー (Bernard Palissy) は田園風器物とよばれる特色ある陶器を16世紀半ばに独自に創造した[16, 23].白地の多孔性の陶器素地でつくられた楕円形の皿に原寸のヘビ,トカゲ,エビ,川魚,カタツムリ,カエルなどを浮彫りで装飾したものだ.浮彫りが写実的なのは自然のものから型取りしたためで,釉薬 (鉛釉) の色を工夫して自然の色を再現したことに特色がある.ワグネルが開発した旭焼の素地は寺山土 (ケイ酸分の多い粘土) に素地の割れを防ぐために石灰 (胡粉) を加えた軟質磁器 (焼成温度は低く1100℃程度) だが,その釉薬には酸化鉛,酸化亜鉛,ホウ酸を加えて700~750℃で溶融する低火度釉 (鉛釉の一種) を採用して七輪 (珪藻土を焼成した土器) で施釉した[19, 24a, 24b].なお,伝統的な鉛釉には有害な鉛が溶出するリスクがあるので,最近の陶芸では,耐酸性を高めるように改良された有鉛上絵の具の使用が一般的になっている.
[注3] 日本で磁器の製造が可能になったのは,朝鮮出兵の後の時代だ.朝鮮からの陶工・李参平が有田で磁器製造を始めたのは1616年,酒井田柿右衛門の赤絵付けの成功 (長崎に来ていた中国人・周辰官から学んだ) は1646年だ.ヨーロッパで磁器の製造が可能となったのは,景徳鎮そして有田からの大量の磁器輸出のあった後の時代である.ザクセン選帝侯兼ポーランド王のアウグスト2世の命で錬金術師ベトガーが1710年に白磁 (マイセンの硬質磁器) を誕生させ,1720年に絵付師ヨハン・グレゴリウス・ヘロイト (Johann Gregorius Höroldt) は色絵付を始め,1733年に主任型師となった彫刻家ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー (Johann Joachim Kaendler) は磁器人形を創り上げた.そしてマイセンの染付磁器 (商品名はブルーオニオン) は1739年に始まった.フランスのセーブル窯は1757年の開窯だが,1765年にサンティリエでカオリンが発見されると硬質磁器が作られるようになった.マイセンの磁器技術は次第に欧州内に流出し,景徳鎮や有田からの磁器輸入は大幅に減少した.なお,薩摩焼の白薩摩も朝鮮からの陶工が開発した磁器である.「SATSUMA」の名がヨーロッパに知られるようになったのは1867年のパリ万国博覧会に出品されてからのことだ.
[注4] イスラムを起源とする錫釉陶器はルネサンス期にイタリアに伝わって人気を博し,マヨルカ風陶器の製造が盛んになった.マホルカ島 (イタリア語でマヨルカ,英語読みはマジョルカ) 経由で送られてきたスペイン産の錫釉陶器の国産化が15世紀のイタリアで進んだのだ.そしてマヨルカと呼ばれた錫釉陶器のイタリアでの最大の窯場はファエンツァだったので,16世紀にアルプス以北のヨーロッパに伝播したときに錫釉陶器はファイアンスと呼ばれるようになった[12].錫釉陶器は白磁に似せた外観を創り出すために,石灰分の多い粘土 (泥灰土) を950~980℃で焼成した石灰質陶器に,透明な鉛釉に錫を加えて白濁させた錫釉 (不透明な白色釉) を施釉したものである[17].ネーデルランドで錫釉陶器の生産が盛んになったのは中国磁器を運んだポルトガル船が拿捕され,商品が競売にかけられたことが関係する.中国磁器と見た目には変わらない質の高い製品に挑戦した工房によって技術進歩が起きたのだ.1650年頃に窯業の中心となっていたデルフトの錫釉陶器の特徴は,(i) 表裏ともに白い錫釉を施したこと (従来のマヨルカ陶器は表面のみに錫釉が施されていた), (ii) 白地に藍色の絵の具で丁寧に描かれた絵付,そして(iii) 絵付の上に透明な鉛釉を施したことが特徴だ[12, 25].
[注5] イスラムを起源とする軟質磁器がヨーロッパに導入され,1574年頃にはメディチ磁器 (石灰泥と白粘土にガラス粉を配合したものが原料) が開発され,17世紀終わりごろにはフランスのサン・クルー窯で軟質磁器が焼かれるようになった[12, 16].そして1748年にはイギリスで牛の骨灰を配合した軟質磁器 (ボーンチャイナ) が発明された.それは粗悪なものだったが1805年にジョサイア・スポード2世が改良して品質を高めた[26].軟質磁器はガラス成分を多く含むために1200℃程度の低い焼成温度での製造が可能で透光性にも優れるが,焼成中に変形が起こりやすい難点があり,スチールで引っ掻き傷がつくので食器としての性能は硬質磁器に劣る.そのためボーンチャイナの利用はアフタヌーンティー用の食器が中心となっている.
[注6] 1859年に横浜港が開港すると日本の美術工芸品が外国人に人気となった.なかでも人気の高かったのは陶磁器で,横浜に移り住んで窯を築く陶工や産地から送られた白素地の器に絵付けを始める絵師も現れた.これが横浜焼・横浜絵付の始まりだ[20].首都東京にも,同様に外国人向けの東京焼・東京絵付の陶磁器製造所が数多く誕生した.京都出身の陶工・宮川香山は1870年に横浜に移住して窯を築いて写実的な高浮彫を特徴とする真葛焼を製作したが,後年になって釉下彩に転向した.田代屋の田代市郎治は輸出陶磁器商で,1871年に横浜に店を構えた.1875年に本町2丁目に松石屋を開店した井村彦次郎は横浜最大の陶磁器商となって店舗付属の画工場で大量に製造・販売した.東京絵付の代表的な工房であった瓢池園は河原徳立が設立したもので,1873年のウィーン万国博覧会に出品するために設置された磁器製造所を前身とする.そして隅田焼の井上良齋,超絶技巧と呼ぶにふさわしい細密描写の作品を制作した陶博園の成瀬誠志,ワグネルの指導のもとで友玉園を開いて釉下彩の顔料を自ら開発した加藤友太郎,七宝でも著名な濤川惣助 (無線七宝を発案) らは東京焼・東京絵付の代表的な陶工・画工である.明治時代の輸出用陶磁器は大航海時代以降の景徳鎮・有田磁器の輸出品と同様に顧客の嗜好に合わせた注文品の製作だから,必ずしも製作者の好みとは相容れず,現存する作品の多くは海外に存在する.宮川香山や井上良齋の高浮彫の作品は1860年代から1880年代にかけてフランスでのパリッシーのリバイバルとイギリスにおけるケンドラースタイルのリバイバルに関係すると荒川正明は指摘している[20].顧客ニーズに応じて作品を提供するだけのシーズ技術を持っていたから制作が可能だったのだ.日本陶器 (1981年からの社名はノリタケ) がディナーセットの生産を始めた1914年頃からは,輸出陶磁器の主流は観賞用の工芸品から実用的な洋食器へと移行が始まった.コスパの高い洋食器は米国で人気を博し,1960年頃からは洋食器の国内需要も高まった.なお,中国磁器の欧米への輸出はアヘン戦争によってほぼ終結していた[12].
[注7] 銅イオンの発色はさまざまだ.硫酸銅 (CuSO4) の水溶液は鮮やかな青色で,水溶液から析出した硫酸銅の五水和物(CuSO4・5H2O)も青いが,それを加熱して無水和物にすると白い結晶になる.藍銅石 (Cu3(OH)2(CO3)2)のなかにある銅イオンは青色に発色するが,トルコ石 (CuAl6(PO4)4(OH)8・4H2O)では青緑色で,孔雀石 (Cu2(OH)2CO3) だと緑色だ.鉛釉の中の銅イオンは緑色を呈するが,アルカリ釉の銅イオンはエジプト青 (CaCuSi4O10)を形成して青色だ.釉裏紅を釉薬に応用した辰砂釉の発色は薩摩切子の紅色切子に似ている.いずれも金属銅コロイドのプラズモン吸収によるものだ[27].辰砂釉は還元焔で焼成された0.3~0.5%の銅が含まれた釉 (灰釉に発色剤の炭酸銅と発色補助剤の酸化錫を加えたもの) だが,焼成中にかなり揮発するので実際の調合では酸化銅を3%程度加える[17].還元焔焼成では酸素の供給が不足するので燃料は不完全燃焼し,煙の多い炎になって器物の表面に遊離炭素 (煤) が付着し炉の温度も低下する.したがって,酸化焔焼成を続ける中で,適切なタイミングを見計らって効果的に還元焔に切り替えることが重要になる.ガスまたは油で酸化焔焼成したときの雰囲気はだいたい窒素88%,炭酸ガス6%,酸素6%だが,還元焔焼成ではおおよそ窒素88%,炭酸ガス10%,一酸化炭素2%になる[17].なお,電気炉で還元焼成するには有機物質を炉に投入すればよい.辰砂釉では還元された表面の銅が金属銅コロイドとなって赤く発色するのだが,その下にあるCu2+の青 (アルカリ釉のなかの銅イオン) と重なると赤紫に見える[27].
[注8] 土器に始まる陶磁器は実用品としての応用が中心だが,彩文土器,火焔土器,色絵や浮彫などによる陶磁器の表面加飾に見られるように,表面に彩色や装飾を施した工芸作品としても進化を遂げた.土器や陶磁器の人形製作の歴史も古い.縄文時代の土偶や古墳時代の埴輪は土器で作った人形であり,始皇帝陵の兵馬俑は兵士や馬をかたどった彩色土器だ.そしてケンドラーが始めたマイセンの磁器人形や信楽焼の狸の置物,今戸焼の招き猫も観賞用に造られたものだ.そして景徳鎮や有田から輸出された絵皿や花瓶などの磁器の多くはヨーロッパでは実用品としては用いられずに,宮殿の装飾 (磁器の間) に利用された.宮川香山の浮彫による輸出用磁器も実用には不向きな破損しやすい形態だから,花瓶などとして実際に使用されたとは考えにくい.実用品は必需品だが,工芸品は嗜好品でいずれも消費者への販売が中心だ.そして芸術・工芸品の多くは墳墓,宮殿および美術館などでの顕示によって権力者への畏怖の念を呼び起こすことが主な目的だ.多くの陶磁器はマーケティングを重視して製作されている.
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24.例えば,(a) 加藤誠軌,ワグネル先生記念碑の改修に寄せて,セラミックス,13 [6] 486-489 (1978).
(b) 道家達將,水谷惟恭,Dr.ワグネルに始まる日本近代陶芸・セラミックスの美・用・学,セラミックス,49 [9] 749-754 (2014).
25.エマニュエル・クーパー,世界の陶芸史,日貿出版社 (1997).
26.例えば,鳴海製陶株式会社 ボーンチャイナの歴史:https://www.narumi.co.jp/topic/29934/
27.寺井良平,トルコ青とトマト赤(2),マテリアルインテグレーション,19 [5] 53-57 (2006).