小石川の東京砲兵工廠と諸工伝習所の跡地を巡る

小石川後楽園は徳川頼房(水戸徳川家の初代)が1629年に築いた江戸の中屋敷の後園で,徳川光圀(水戸徳川家の二代)の代に完成した.神田上水の分流を引き入れた池を中心とする回遊式泉水庭園は,光圀の儒学思想のもとでの深山幽谷の趣が特徴である.「後楽園」と命名されたのは,光圀が明の遺臣・朱舜水の意見を取り入れて,范仲淹の「岳陽楼記」の一節「先天下之憂而憂 後天下之樂而樂歟(天下の憂いに先立って憂い,天下の楽しみに後れて楽しむ)」の「後」と「樂」に因んだからだ.

1657年の明暦の大火で江戸城内にあった水戸家の上屋敷(松原小路屋敷)が類焼し,大名屋敷の郊外移転が計画された.延焼防止のために火除地を確保する計画だ.このときに小石川の中屋敷は水戸徳川家の上屋敷となった.なお,新たな水戸家の中屋敷(駒込邸)は現在の東京大学弥生キャンパス,本所小梅に設置された下屋敷は現在の隅田公園である.この水戸徳川家小梅邸は水戸徳川家が1871年に廃藩置県によって水戸藩知事を免ぜられて移住した先でもある.小梅邸は関東大震災で灰燼に帰したが,その跡地が隅田公園として整備されたのは帝都復興事業の一環であった.

さて,明治政府は1869年に水戸徳川家上屋敷を買い上げ,1871年から造兵司(陸軍の兵器工場)とした. 1879年にはこれを改称して東京砲兵工廠とした.しかし,1923年に関東大震災の被害を受けると1931年から小倉工廠への移転を始め,移転が1936年に完了すると跡地は売却され,後楽園球場と後楽園遊園地が1937年に開業し,小石川後楽園は都立公園として整備されて1938年に一般開放された.その後,1987年に後楽園球場は閉鎖されて東京ドームが1988年に開場した.

小石川後楽園の東門より入ってすぐ左手の内庭の池のほとりに陸軍造兵廠東京工廠跡の記念碑がある.修復された唐門は内庭から大泉水への入り口だ.大泉水を取り囲むように円月橋や西湖堤などの中国の風物を配した庭園が現れる.江戸時代の酒亭を再現した九八屋のすぐ横に置かれている弾丸製造機の部品(造弾器の一部)は陸軍造兵廠の遺物とされる[1, 2].ただし,弾丸製造機の部品についての説明は小石川後楽園の入園パンフレットにも公園内の説明板にも公式ホームページにも見当たらない.

小石川後楽園の内庭の池
修復された唐門
九八屋
弾丸製造機の部品
円月橋
西湖の堤
大堰川
屏風岩

円月橋は朱舜水の設計と指導によって駒橋嘉兵衛が造ったとされる中国様式の石造アーチ橋だ.橋が水面に映る姿が満月になることから円月橋と名付けられた.渡月橋を渡れば,左手に西湖の堤,右手に大堰川とその先には屏風岩が見える.渡月橋は嵐山の大堰川(桂川)にかかる渡月橋を模したもの,西湖の堤は中国杭州「西湖」にかかる堰堤を模して造られた.そして小石川後楽園の東門入り口の脇の小道(後楽緑道)の先にある小石川後楽園展示室には水戸徳川家の系図や小石川後楽園からの発掘品などが展示されている.

礫川公園
ハンカチの木の花
東京都戦没者霊苑

礫川公園は小石川後楽園の北側に位置する公園だ.公園の入り口付近に植えられているハンカチの木は小石川植物園から幸田文が譲り受けたものだが,2002年に礫川公園に寄贈された.階段を登って奥に進んだところに,陸軍砲兵科工科学校跡と諸工伝習所跡記念碑の記念碑がある.その記念碑の裏面には近代陸軍技術教育発祥の地であると書かれている.フランスの砲兵大尉ジョルジュ・ルボン氏を招聘して諸工伝習所を創立したのが1872年7月15日であり,それから第二次世界大戦終結までの73年間,その名称は諸工伝習所から陸軍砲兵工科学校,陸軍工科学校,陸軍兵器学校と変わったが,陸軍技術の教育が絶えることなく続けられたと書かれてある.碑は伝習所創立100周年に建てられた.記念碑の先をさらに進んだところには東京都戦没者霊園がある.隣接する中央大学理工学部(1944年に設立された中央工業専門学校が起源)の校地にも,戦前,東京砲兵工廠付属の教育訓練施設があったとされるから,校地は現在の礫川公園から中央大学理工学部の一帯に及ぶものと思われる.

東京ドームの一帯が水戸徳川家の屋敷跡であることを知る人は多いが,明治時代になって軍事施設に転用されたことを知る人は少ない.

文献
1.江戸東京ブログ,後楽園周辺の戦争の痕跡を巡る:https://tokyo-indepth.com/2022/11/29/korakuen_senso/
2.小石川後楽園周辺の戦跡散策:https://senseki-kikou.net/?p=1143

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