豊橋さんぽ(No.2吉田城跡と豊橋公園)

 “豊橋さんぽ”の具体的な記述を始めるにあたって、まず、現在毎日のように散歩コースとしている豊橋公園内にある、吉田城跡(今橋城跡とも呼称)について紹介することにします。

戦後に吉田城跡本丸に復元された鉄櫓(内部は資料館として公開されている)


 この城が築城されたのは室町時代(1336年~1573年)後期の1505年で、今川氏に属する牧野古白によって、と言われています。その後、乱世の戦国時代になると、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、三河の松平氏による城の争奪戦が始まり、最終的には松平氏が1564年に城を奪い、配下の酒井忠次を城代に据えました。安土桃山時代(1573年~1603年)になり、豊臣秀吉が天下統一を果たし、松平氏出自の徳川家康を関東に入封したことから、秀吉配下の池田輝政が城主となりました。池田輝政の時代に城は大改造され、現在の城址の城郭(豊川を後背とした半輪郭式平城)が形成されたとのことです。

吉田城の城郭と武家屋敷及び城下町の配置図(吉田城資料館より)


 この池田輝政はその後、関ケ原の戦いでは徳川方の東軍に加わり、戦功を挙げたことから、姫路の城主となり、現存するユネスコ遺産の姫路城を造ったことで知られており、歴代の吉田城主の中では一番有名な武将と言えます。徳川時代(1603年~1868年)になると三河吉田藩となり、江戸と京を結ぶ東海道の中間に位置する地政学的に重要な場所であったことから代々譜代大名が配置され、1729年に大河内松平家(伊豆守)の松平信祝が城主となってからは7代にわたって松平家が城主となり幕末まで続きました。石高は3~8万石とあまり大きくはなかったのですが、3名の城主が老中職に登用されるなど、幕閣の重要な役目を果たしました。明治時代になって、1871年に廃城となった後は1873年に国の管轄地となり、陸軍の歩兵18連隊が置かれました。

 第二次世界大戦後は、市立豊橋公園として整備され、城跡の本丸の北西角にはコンクリート製で三層の鉄(くろがね)櫓が復元されました。園内にはその他に、美術博物館や野球場、陸上競技場、武道館、テニスコート、プールなどのスポーツ施設(実は、刑務所も)が整備されています。また、隣地には豊橋市役所の庁舎、ロマネスク様式の公会堂、警察署、豊城中学、吉田神社(手筒花火発祥の神社)、ハリストス正教会や奇祭として知られる鬼祭が催される安久美神戸神明社などもあります。公園の中には樹木がたくさん植えられていて、いろいろな鳥のさえずりが聞こえるなど、市民にとって憩いの散歩コースになっており、私も一市民として楽しませてもらっています。  (岡田清)

  
  

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