随筆 セラミックスを離れて50年 ~何をやってきたのだろう~

島宗孝之(相談役:1966学 1968修 1971博)

無機材会主催の企業セミナー2020(オンライン)で
無機材会・会長として挨拶。
〔背景は前年度に実施した企業見学のときの写真〕

 ドクターコースまで行って、修了、これでセラミックスの専門家か?と思ったわけではないが、直接のセラミックスに関連することから離れるとは夢にも思っていなかった。ところが、運命のいたづらか? 今にいたるまでセラミックス関連にほとんど関係することが無いまま技術屋さんを終わろうとしている。なにせ大学に残ってもう少し研究なんて思っていたが、それがかなわず又時期が合わず、セラミックス関連の企業にも外れてしまった。まあつきあいのあった、エックス線関連の装置メーカに就職、カメラの設計などをやっていた。ただ売り出し時点では時代遅れ、やることがなくなり、ちょっとの間営業などをやって、自分を売りに回った。当時も「ドクターは使えない」というのが正直の所だったのだろう。 

 だめかと思っていたときに、これからだよというイタリアとの合弁会社に出会い、まあセラミックスではないが、なんとかなるかな?という事で深く考えずに移動。海外との合弁であったからドクターは有効で、良かった? 電気化学と言うことではあったが、要は新しく発明された工業用電極(名前は DSA)を作る会社。むしろ土方仕事の方が多いのでは?という予想していたらその通り。ただ日本の方が先に商品化したせいか、海外との連絡が必要で、短期の海外出張が多く気晴らしが出来ていた次第。

 会社にいるときは、朝から晩まで塩化ルテニウムを溶解してコーティング液を作る作業。ルテニウムにして毎月300kg づつ溶解。原料としてチタンに塗布焼き付けをした電極は、水俣病の元凶であった水銀問題の解消に役立ったという事、省電力に貢献したという事で、当時からエコ問題には関連。大量の電極を作っていたが、基本特許が日本だけは成立していないという大きな問題。

 今度は特許!という事で、またまた押っ取り刀で作業。その技術は、琺瑯に似て琺瑯にあらずという焼き物、つまり、金属基材の表面に結晶質の酸化物被覆を熱分解法で形成する技術であり、電極であった。特許化するのが大変。ただ特許成立後は皮膜が金属面に1%でもついていれば良く、その皮膜に1%でも白金族金属酸化物が含まれていれば全て特許に抵触というとんでもない請求項。今を去ること50 年前の特許は、請求項が全て。という事で成立したらその強さは大変なものであった。これで若干、特許の裏側を見ることができ、これは後でいろいろと役立つことになった。

 そのあと幾つかの一部上場の企業と特許争いをしたが全てこちらの勝ち、という事ではあった。そんなことをしながら、企業に25 年、それからリストラにより独立してそのまま電極関連のコンサルタントとして25 年、合計50 年。不器用が講じて未だ抜け出せないでいる。

 今やカーボンフリーで水電解だの燃料電池だの、更には基本になるLIB だのと電気化学関連の拡大を言われている。現場が大事、それでいて現場人間が少なくなってしまった日本の電気化学はどうなるのか? 多くのメンバーが元気にやっているセラミックスとはちょっとちがってしまったな!というのが今の自分。でも、もう少し続きそうな気配!


以上

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