「その時私は」物語: わたしの2011年3月11日 その1

沖縄那覇の観光案内所で入手したパンフレットです。

いつも工事中

記憶をたどって書き込んでいるため,記憶違いなど多々あると思います。
随時,訂正・追加・補正など行っていきますのでご承知ください。
たつひとの合気道場同様,内容はいつも工事中です。

 2011年の東日本大震災から,早いもので14年が経ちました。一昨年2023年5月に,沖縄行きの安いJALの航空券が手に入り久しぶりに沖縄へ旅行に行きました。旅行内容は那覇に着いてからということで,どこに行くか観光案内所で地図を探していた時に置いてあったのが,南海トラフ地震のパンフレットです。このパンフレットを開いていると,あの東日本大地震の当日のことが昨日のことのように思い出されてきました。その時がまた来るかもしれない。
 今回は,2011年3月11日14時46分,三陸沖の宮城県牡鹿半島の東南東130km,深さ約24kmを震源とした地震発生のその日,東日本にいた多くの人がその時を体験しました。地震とその後,襲ってきた津波の被災地とは少し離れた場所,東京の市谷のビルの中はどのようであったかを書いてみようと思います。

当日3月11日の朝

 私は,そのころ,長年勤めた鉄鋼会社から関係会社に転籍し,単身赴任で兵庫県の西の岡山県との県境にちかい赤穂浪士で有名な赤穂に居を構えていました。2011年3月11日,ちょうどこの日は4月からオーストラリアへの海外赴任がきまり,市ヶ谷にあった本社でその説明を受けるために上京していました。前日は,留守宅となっている自宅の武蔵小杉のマンションにとまり,午前は広島旅行に新幹線で向かう家内を品川駅まで送っていったあと,午後からの説明を受けるために市ヶ谷の本社ビルへ向かいました。

その時,2011年3月11日(金) 午後2時46分

 その時,ビルの三階の事務所の中の机についていた私の携帯を含め,周り人の携帯電話が一斉にあちらこちらで鳴りはじめました。この初めてのことに,みな顔を見合わせます。「あれ」「なんだこれ」「ひょっとして」と戸惑っている間に,ビルが揺れ出し,あまりの揺れにやばいと事務机の下に私は潜り込みました。机の下に潜り込んだのは,生まれてこのかた初めてのことでした。揺れはかなりは長く続き,両手で左右の机の脚を握りましたが,机が円を描くように床の上を動いています。天井の一部が落ちてきます。えらいことになった。震源地はどこだろう。皆は大丈夫だろうか。

 すぐに,川崎に勤務地のある息子と広島へ向かっている家内,そして兄弟で一番遠い神戸に住んでいる弟にメールで「大丈夫だ」と発信しました。弟への発信は,多分,親や関係者に転送してくれるだろうと期待しての発信でした。時間がたてば,通信ができなくなる。案の定,しばらくして,メールの送受信もできなくなりました。この時,両親は東京の府中にいました。後で聞いた話で,この弟に送ったメールが転送され,私の無事を知ることができたそうです。私が両親の安全を確認しできたのはその後,通信が回復してからでした。

 まだ,本震の後、余震が続いています。説明をしてくれる本社の上司は「こんな時だから説明はいいか」との申し出に,説明を聞くために本社へ来たのだから「説明を聞かないと,3週間後に迫った4月からのオーストラリアへ赴任できない」と,まだ余震で揺れるビルの中で,海外赴任手続きの説明を受けました。

当日,その後

 本社が入っているビルは,市谷駅から九段下に向かう靖国通り沿いにありました。そこを救急車が九段下の方へ走っていきます。後で知ったことですが,九段会館で天井が崩落し,専門学校の卒業式に参加していた二名の方がなくなり,31人が重軽傷をおわれました。本社の居室にはテレビなどないので,九段会館の事故や,被災地の地震の後の津波などの情報が入ってこず,津波の被害を知ったのは次の日でした。

 揺れが収まってきましたが,電車が全面ストップしているとの情報がはいり,事務方の女性がコンビニで,食料を仕入れに出ていきました。電車がストップしているので,今夜は本社に泊まりになることを覚悟しました。このときの本社事務方の対応はしっかりしていて,頼もしく感じました。

「その時私は」物語: わたしの2011年3月11日 その2 夜になって


高橋達人 (たかはし たつひと) tatsudoc@nifty.com