維新の三傑の目指したもの

大久保利通は西郷隆盛,木戸孝允(桂小五郎)とともに明治維新の三傑と称される.木戸孝允は1877年5月26日に大腸がんの肝臓転移によって京都で病死(45歳没),西郷隆盛は西南戦争で1877年9月24日に自害(49歳没),そして大久保利通は1878年5月14日に麹町清水谷で暗殺された(47歳没).いずれも人間五十年には届かなかった.

木戸孝允は長州藩出身で,1849年に吉田松陰の門弟となり,藩内の尊王攘夷派の指導者となった.そして,1866年には藩を代表して薩長同盟を締結し,明治維新後の1871年には岩倉使節団に参加した.帰国後は憲法制定や三権分立国家を建言したが,富国強兵政策に邁進する大久保主導政権に批判的なため政府内では孤立しがちだったとされる.

西郷隆盛は薩長同盟の成立や王政復古に寄与し,戊辰戦争を主導した.江戸総攻撃を前にした勝海舟らとの交渉では総攻撃を中止して,江戸無血開城を実現した.岩倉使節団が欧米歴訪中(1871年12月23日に出発)の期間は廃藩置県(1871年8月29日実施)の後始末を行う留守政府の参議だったが,征韓論を巡り1873年に下野(明治6年政変)した.その後は私学校での教育に専念したが,西南戦争の指導者となって自害した.

大久保利通は西郷隆盛らとともに公武合体運動から倒幕運動に進み,岩倉具視らと王政復古を成功させた.明治政府では参与・参議として中核を担い,版籍奉還や廃藩置県を主導した.岩倉欧米使節団の副使として諸外国をめぐり,帰国後は内政の充実を唱え,富国強兵を推進するため殖産興業に注力して征韓論の西郷隆盛と対立した.初代内務卿に就任して権限を振るい,佐賀の乱や西南戦争などの反政府騒動を鎮圧する一方,地租改正反対一揆に際しては地租を引き下げて農民を擁護し,国会開設などの協議(大坂会議)を板垣退助らと行った.大久保は官僚政治家として日本の資本主義国家への基礎を築いたのだった.

清水谷公園にある大久保利通の哀悼碑
青山霊園にある大久保利通の墓 
大久保利通の顕彰碑

大久保は霞ヶ関の自邸から2頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かう途中,6人の不平士族に日本刀で襲われて殺害された.1878年の紀尾井坂の変だ.厳密には,暗殺事件が起きたのは紀尾井坂ではなく,紀尾井坂にたどり着く直前の紀尾井町通りだった.同行者は馭者と従者の2名のみであり,警備はまったく軽微なものだった.

1890年に東京市が整備して,暗殺現場は清水谷公園となった.清水谷公園には「贈右大臣大久保公哀悼碑」と書かれた石碑が建立されている.石碑は緑泥片岩,台座は硬砂岩で造られ,1888年に建設された.青山霊園には大久保利通公の墓と青銅製の顕彰碑がある.そこには刺殺された馭者の中村太郎と馬車を引いていて落命した馬も埋葬されている.

明治維新の三傑は倒幕では意見は一致しても,新たな国家建設のビジョンは異なっていたようだ.西郷は先の時代を,そして木戸はその先を見ていたのかもしれない.

(岡田 明)

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