傳馬町の吉田松陰と松陰神社
1613年頃に江戸時代の牢屋敷は常盤橋門外(今の日本銀行の辺り)から傳馬町に移転した.そして1875年に市ケ谷の監獄に囚人を移して傳馬町の牢屋敷は取り壊された.傳馬町の牢舍は揚座敷(旗本),揚屋(士分・僧侶),大牢(平民),百姓牢(百姓),女牢(婦人)の別があり,安政の大獄では吉田松陰,橋本佐内,頼三樹三郎らを獄に下し,ほとんどが刑死した.1954年の傳馬町牢跡は大安楽寺,見延別院,村雲別院(現存せず),十思小学校(1990年に廃校,跡地は十思スクエアとなり,別館には小伝馬町牢屋敷展示館がある),十思公園を含む一帯であった.現在,大安楽寺には江戸伝馬町処刑場跡と江戸傳馬町牢御椓場跡の碑がある.十思公園内には松陰先生終焉之地の石碑などがある.いずれも小伝馬町駅の近くだ.2012年には牢屋敷の発掘調査が行われた.
吉田松陰は1854年に師の佐久間象山の勧めで下田から海外渡航を計画したが失敗して,下田の獄につながれた.その後,傳馬町獄送りとなって,途中の高輪泉岳寺の前で「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」の歌を詠んだ.傳馬町獄では6か月の拘置の後,萩に謹慎となった.萩では松下村塾で教え,その門人の中から木戸孝允,伊藤博文,山縣有朋らが出た.その後,安政の大獄に連座して,再び傳馬町獄に入牢した.処刑の日は1859年10月27日であり,揚屋を出るときに「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」の詩を高らかに朗吟した.
1863年には門下生の高杉晋作や伊藤博文らによって,千住子塚原回向院から大夫山と呼ばれていた毛利藩の所領(毛利大膳大夫の抱屋敷・現在の世田谷区若林)の楓の木の下に改葬された.禁門の変の後の長州征伐のときに墓は破壊されたが,木戸孝允らによって1868年に墓は修復され,その後,徳川氏から石燈籠と水盤が謝意の意を込めて寄進された.1882年にはその墓畔に松陰神社が創建された.参道の脇には吉田松陰先生像(1890年に製作された石膏像から,2013年に鋳造されたブロンズ像),模造松下村塾(萩にある松下村塾を再現.1938年に国士舘の構内に建築され,1941年に松陰神社へ寄贈・奉納された)の脇には松陰先生像がある.
安政の大獄の首謀者は井伊直弼だが,その墓のある豪徳寺までは目と鼻の先だ.
(岡田 明)