品川区の大森貝塚と大田区の馬込文士村

縄文時代の住居跡からは縄文式土器,土偶,骨角器(例えば,縫い針や釣り針)などが発掘される.大平山元遺跡からは16,500年前とされる土器が[1],信濃川流域の縄文時代の遺跡からは火焔型土器が出土した.石器や土器,竪穴住居跡などが発掘されれば古代の遺跡だが,当時の海岸に近い縄文時代の集落跡からは貝塚が発掘される.そこからは貝のほかに動物の骨や土器なども見つかっている.貝塚は縄文時代の日常生活を伺い知ることのできる重要な遺跡なのだ.

近隣にある縄文時代の代表的な遺跡といえば,大森貝塚だ.エドワード・S・モース(Edward Sylvester Morse)が1877年に横浜から新橋に向かう汽車の窓から貝殻の堆積を発見し,直後の発掘調査によって土器214点,土版6点,骨角器23点,石器9点,貝9点の全261点の遺物が出土した[2].その報告書は大森介墟古物編(Shell Mounds of OMORI)として1879年に刊行されている.しかし,遺跡の正確な場所はその後の景観の変化などにより分からなくなってしまった.1929年に大森貝塚碑が品川区大井6丁目に,1930年に大森貝墟の碑が大田区山王1丁目に建立されたのはこのような事情があったのだ.この2つの石碑はいずれも電車からよく見えるように線路際に設置されている.なお,モースの発掘した大森貝塚は,現在の大森貝塚遺跡庭園であることが後の調査で判明している.

大森駅の構内には1979年に建立された日本考古学発祥の地の記念碑がある.中央口の改札を出れば向かいの道路(池上通り)を隔てた目の前には八景天祖神社があり,その階段の側面には馬込文士村の面々のレリーフが設置されている.池上通りは池上駅前から大井町方向に通ずる通りだ.これを大井町方向に進むと,大森貝墟の碑を経て,大森貝塚碑が設置されている大森貝塚遺跡庭園があり,その先には鹿嶋神社と来迎院,そして遺跡から出土した遺物の展示がある品川歴史館へと続く.

日本考古学発祥の地の碑
馬込文士村の住人のレリーフ
大田区の大森貝墟の碑
品川区の大森貝塚碑
大森貝塚遺跡庭園内の貝層
大森貝塚遺跡庭園のモース博士像
品川歴史館の展示 (シカの角と骨)
品川歴史館の展示 (土製耳飾)
品川歴史館の書院

大田区にある大森貝墟の碑は道路際にレプリカが2014年に設置されているが,本物はNTTデータ敷地通路奥の階段を降りた先にある.大森貝塚遺跡庭園はモース博士の生誕の地であるポートランド市と姉妹都市提携を結んだのを記念して整備され,1985年に開園した.貝層の展示やモース博士像がある.1985年に開館した品川歴史館には大森貝塚と品川宿の常設展示がある[3].大森貝塚から出土した動物の骨や土器などの展示だ.品川歴史館は安田財閥を築いた安田善次郎の甥にあたる安田善助邸の跡地に建てられた.その庭園には,安田善助が建てた茶室「松滴庵」が残され,昭和初期に建てられた安田善助邸の書院造りの大広間が復元されている.松滴庵では高橋是清,藤原銀次郎,根津嘉一郎らを招いて茶会が開かれていたと言われている.

鹿嶋神社
天然記念物のタブノキ
来迎院

鹿嶋神社は969年に茨城県鹿嶋神宮より御分霊を勧請して創建された.現在の本殿は1931年に建てられた檜造りだ.隣の来迎院は天台宗の寺院で,鹿嶋神社を管理するために置かれた別当寺として969年に開山されたが荒廃し,1347年に再興されて常林寺に改称した.その後1833年には旧称の来迎院に改称されている.

別当寺は江戸時代以前に神仏習合が行われていたなごりだ.神社を管理する別当寺の別当は,神社の長である宮司も管理していた.このように1868年に明治政府が神仏分離令を発するまでの寺院の地位は神社を凌ぐものであったが,廃仏毀釈運動によって低下した.政府は神道国教化を目論んだが,1872年の神祇省廃止・教部省設置で頓挫し,今日に至っている.鹿島神社にある推定樹齢200年のタブノキは天然記念物だ.

1876年に開業した大森駅前の高台は都市近郊の別荘地であり,馬込には雑木林やダイコン畑が広がっていた.そこに多くの文士や芸術家が移り住んで互いの交流を深めるようになり,いつしか馬込文士村と呼ばれるようになった[4].関東大震災が起こった1923年に尾﨑士郎,宇野千代夫妻が移り住み,文学仲間を次々に誘ったのがその契機だ.川端康成,萩原朔太郎,北原白秋,室生犀星らが住民に加わったのだった.実際には,震災前から小林古径や川端龍子らが「大森丘の会」と称する芸術家たちの会合を開いていたのだが,震災後に尾﨑士郎の誘いで次々と馬込に文士たちが住むようになり,居住者相互の交流もいっそう親密なものになった.この賑わいは1930年頃までは続いたが,交流は大戦勃発までには終了した.

尾﨑士郎の山王の自宅跡は大田区立尾﨑士郎記念館となっている.尾﨑士郎の代表作は人生劇場で既に14回も映画化されたが,残念ながらまだ読んだことはなく,観たこともない.川端康成が絶賛したのをきっかけにベストセラーとなったとされる.馬込文士の邸宅跡には記念館や居住跡案内板が設置されており,尾﨑士郎記念館の前にも解説板が設置されている.なお,この住居跡は1923年に尾﨑士郎,宇野千代が移り住んだところではない.交流が進んだ文士たちの間で浮気や離婚が相次ぎ,宇野千代と正式に離婚し,古賀清子と結婚したのは1930年のことだった.1979年に開館した大田区立郷土博物館にも馬込文士村の展示がある.

尾﨑士郎記念館の前の解説板
尾﨑士郎記念館の人生劇場の石碑
尾﨑士郎記念館の内部
蘇峰公園内の徳富蘇峰像
馬込文士村の展示(大田区立郷土博物館)  
馬込文士村の展示(大田区立郷土博物館)  

徳富蘇峰は文士村の作家との交流はあまりなかったようだが,1924年に建てられた邸宅が現在の蘇峰公園内の山王草堂だ.山王草堂の一部(2階部分など)は蘇峰関連の資料とともに1988年に開館した山王草堂記念館に保存されている.蘇峰の父である徳富淇水は勝海舟と親しかった横井小楠の門下だ.両者は門下生同士の交流を行っていたので,蘇峰は幼いころから勝海舟の話を聞かされていた.蘇峰が1886年に暮らした借家が赤坂氷川町の勝海舟邸内にあったことからも,蘇峰は勝海舟から教えを仰いでいたことが伺える.

大田区には馬込文士村に加えて貝塚や古墳など多くの古代遺跡があるが,その多くは朽ち果ててしまい当時の姿を想像することが困難だ.時代とともに遺跡の劣化が進むのは止めることができないからだ.跡地に石碑を建立することに加え,解説板の設置はその劣化を補完する意味でも重要だ.都市化の進む地域では遺跡の保存は土地開発との両立が難しいが,遺跡を復元して公園として整備していることは評価したい.1979年に開館した大田区立郷土博物館では,1985年に開館した品川歴史館とともに近隣で出土した遺物や歴史遺産が展示されている.地域の歴史遺産や美術品を保存・展示する博物館や美術館の充実は文化水準を測る尺度として有用だ.経済の高度成長の後には停滞の時代が続いているが,文化的な成長の時代に移行したのならば悪くはない.

文献
1) 工藤雄一郎,土器出現の年代と古環境,国立歴史民俗博物館研究報告,第178集 (2013).
2) 品川歴史館解説シート: 大森貝塚,品川区立品川歴史館 (2020).
3) 品川歴史館見学のしおり  
4) 馬込文士村  https://www.magome-bunshimura.jp/

(岡田 明)

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