ペーパークリップ作戦と覇権国家アメリカ

電子スピンの発見者として知られるサミュエル・ゴーズミット (Samuel Goudsmit:カウシュミットとも記される) が科学主任を務めるアルソス作戦 (Alsos Mission) は極秘任務だ[1].1944年に戦場の真っただ中で,頭文字からABC戦と称していた核戦争 (Atomic Warfare),生物戦 (Biological Warfare),化学戦 (Chemical Warfare) についてドイツの技術水準を調査する任務である.マンハッタン計画から生まれたこの作戦は一握りの人間のみが知る危険を伴う任務だった.

アルソス作戦で得られた主な情報は,(i) ナチの原子爆弾プロジェクトが失敗に終わったこと,(ii) ストラスブール大学でウイルス細菌学者のオイゲン・ハーゲン教授 (Eugen Haagen) が囚人を使った人体実験に関わっていたこと,そして (iii) ベルナー・オーゼンベルク (Werner Osenberg) が戦時中に作成したオーゼンベルク・リスト (ドイツの科学者,技師,医師,技術者の人名録) の発見だ[1].リストに掲載された1万5000人の科学者のなかの5000人は前線から呼び戻され,兵器関係の研究プログラムに従事させられていた.

1945年3月に連合軍はライン川を越えてドイツ領内に進撃し,そこには3000人を超える科学者と技術者が同行した.イギリスとアメリカの共同作戦・連合諜報目標小委員会 (CIOS: Combined Intelligence Objectives Subcommittee) のメンバーだ.CIOSの目的はドイツにおける科学関連のすべての調査である.そしてCIOSが調査した北ミュンスターのラウプカマー性能試験場には毒ガスを扱う施設の特徴が認められ,その近くに発見された弾薬庫のなかには有機リン酸系の神経剤を装填した爆弾が見つかった[1].後に,この神経剤がポーランドのデュヘルンフルトにあるIGファルベンの施設で製造されたタブンであることが判明する.

ブラウンシュヴァイクの森の中のフェルケンローデには7つの風洞を持った「ヘルマン・ゲーリング航空研究センター」があり,そこには音速を超えて飛行する航空機の機体に及ぼす影響を調べる計測装置が設置されていた.1945年4月にそこを調査したロナルド・L・プット大佐 (Donald Leander Putt) は,科学主任のアドルフ・ブーゼマン (Adolph Busemann) に出会う[1].プット大佐は重い投下弾を搭載できるようにB29爆撃機の改造を終えたばかりだった (改造されたB29爆撃機はその後,原子爆弾を搭載して広島と長崎に向かった).そしてプット大佐に勧誘されたブーゼマンは1947年にアメリカのラングレー研究所に移って,超音速航空機の研究を進めることになる.

国防総省の統合諜報対象局 (JIOA: Joint Intelligence Objectives Agency) はナチの科学者を勧誘・雇用して,兵器開発プロジェクトや科学情報計画に従事させるために1945年に創設されたアメリカの科学情報チームだ.アメリカは原爆やB29爆撃機では敗戦国の軍事技術を凌駕していたが,科学情報チームの結論はまったく違っていた.連合軍の進攻に続いてアメリカの科学情報チームがドイツで発見したのは,核兵器を別とすると,ドイツの科学力がアメリカより数十年先を進んでいるという事実だった[1].

地対空ミサイル,ジェット機,生物化学兵器に加え,とりわけ衝撃的であったのはロケット技術であった.V2ロケットはロンドンやアントワープ (アントウェルペンに同じ) などの北ヨーロッパの都市を爆撃して多くの人々を殺害した弾道ミサイルだが,V2ロケットを製造するノルトハウゼンの地下工場でも,1年半のあいだに4000発のロケットを製造する過程で2万人の強制労働者が殺害されていた[2].V2ロケットは爆撃のみならず製造によっても多くの人々を殺害したのである.

緊急の対策が1945年に発動されたペーパークリップ作戦 (Operation Paperclip) だ[1, 2, 3].押収した資料を活用してアメリカの科学力を大急ぎで増強することと敗戦国の科学資料がソ連の手に渡ることを阻止することがこの作戦の2つの目的であり,数百名のドイツの科学者と731部隊 (正式名称は関東軍防疫給水部) の中心的科学者がアメリカ軍の管理下に置かれた.

この作戦の遂行にあたって有用だったのは,ボン大学のトイレで発見された1万5000人の科学者の名簿 (オーゼンベルク・リスト) だ.大学の教授たちは自分を戦争犯罪に結びつける証拠を隠滅するために,大学の中庭で文書類を燃やし,トイレの下水管にも書類を流していたのだ.

この作戦の遂行にあたって障害となったのは連合国間の合意書と人類に対する犯罪に加担した人物の入国を禁じたアメリカの法律だが,その障害は偽造によって取り除かれた.ペーパークリップ作戦が標的としたドイツと日本の科学者たちの職務経歴は,それぞれペーパークリップでまとめられ,戦犯訴訟手続き (ニュルンベルク裁判と東京裁判) から抜き取られたのである[注1].

戦争犯罪 (1945年8月に規定された国際軍事裁判所憲章に違反) に加担した数百名のドイツ人科学者は,アメリカ市民権を与えられて政府機関で働くことを即座に承諾した.拒否すれば厳しい運命が待ち受けていることは確実であり,ドイツ人科学者はアメリカにとっての戦利品として価値があったからだ.なお,戦争犯罪に加担したドイツ人は科学者だけではなく,戦利品として価値のあるドイツ人は科学者には限らない.ナチドイツの元親衛隊将校がアメリカ陸軍に雇用され,ドイツのソ連占領地区での秘密工作などに従事したのは,利用価値のある戦利品であったからだ[注2].

第二次世界大戦中にドイツでフォン・ブラウン (Wernher von Braun) らが開発したV2は世界初の弾道ミサイルだ.1942年にA4ロケットの打ち上げに成功すると,1943年からノルトハウゼンの地下工場・ミッテルベルクでの組み立てが始まり,V2ロケットと名称を改められて1944年に実戦投入された.ロケット開発はバルト海沿岸のペーネミュンデで行われていたのだが,イギリス空軍の攻撃を受けたためにその製造を地下工場に移したのである.ルドルフ (Arthur Rudolph) はドイツのV2ロケット製造現場での組み立て作業に強制収容所の労働者を酷使した[1, 2].過酷な労働と虐待によって半数近くは死亡し,1945年に解放されたときには生存者は骨と皮だけに痩せ衰え,死体の山は焼却を待っていた.

ルドルフはナチ党員だった事実と戦争犯罪の事実を抹消されてアメリカに迎えられた.V2ロケットエンジンを設計し,ノルトハウゼンでのV2ロケットの製造にも携わったルドルフは,米国でもサターンロケットのプロジェクトマネージャーとして開発に携わったのだが,1980年にアメリカ司法省の戦争犯罪捜査が開始されると1984年に国外退去を余儀なくされた.フォン・ブラウンは戦後のアメリカでのロケット開発に携わってサターンロケットを開発し,アポロ11号 (サターンV型ロケットで打ち上げられ,月面着陸に成功したアポロ宇宙船) を打ち上げて1969年の月面着陸を成功に導いた.

ドイツ陸軍兵器局のヴァルター・ドルンベルガー (Walter Robert Dornberger) はドイツ宇宙旅行協会からフォン・ブラウンを引き抜いて,V2ロケットの開発を進めた責任者だ.戦後は戦争犯罪人として扱われたが,1947年に釈放されるとアメリカの空軍や航空機メーカーに勤務してロケット開発に携わった.そしてⅤ2ロケットの飛行試験監督官であったクルト・デーブス (Kurt Debus) は,戦後,ケネディ宇宙センターの初代センター長に就任し,アメリカの宇宙開発に貢献した.

戦争末期にフォン・ブラウンやドルンベルガーらが自らアメリカ軍に投降したのは,自分たちがアメリカ軍の役に立つことに絶大な自信を持っていたからだ[1].実際にドイツのロケット技術者はアメリカの軍用ロケットと宇宙計画に大いに貢献した.フォン・ブラウンらの判断は正しかった.

フォン・ブラウンらが去ったのちにノルトハウゼンに到着したソ連軍は残っていたドイツ人ロケット科学者と技師を仕事に戻らせた.彼らは後にソ連に連れ去られてロケット開発に従事するのだが,ソ連のロケット開発への貢献は大きくはなかった.ソビエト連邦では液体燃料ロケットの打上げを初めて成功させたセルゲイ・コロリョフがロケット開発を主導し,連れ去られたドイツ人ロケット科学者の人材活用は重視されず,閑職に追いやられたからである[注3].

メッサーシュミットMe262は第二次世界大戦末期にドイツ空軍で運用されたジェット戦闘機で,その主任設計者はヴォルデマール・フォークト (Woldemar Voigt) である.軸流式ターボジェットエンジンはBMW社 (BMW 003) 及びユンカース社 (Junkers Jumo 004 ) で製作されたのだが,ユンカース社の Jumo 004は世界初の量産化されたジェットエンジンであった[4].終戦後にフォークトはアメリカに移って,航空機設計に携わった.

ジェットエンジンの開発には耐熱材料が重要で,ニッケルやコバルト基の超耐熱合金 (超合金) が利用されている.蒸気タービンにはクロムやニッケルを添加した鉄を主成分とする耐熱鋼の応用が可能だが,作動温度の高いガスタービンでは高価なニッケルやコバルトを主成分とする超合金が必要となるからだ.戦時中のドイツでは耐熱合金に替わるジェットエンジン材料として窯業材料の研究が進められ,サーメット (セラミックスと金属の粒子分散型複合材料) が注目されていた[注4].ドイツのサーメット研究は戦後にアメリカに引き継がれたもののジェットエンジンのタービンブレードとしては実用に至らず,その主な用途は切削工具に留まっている.

タービンブレード用の窯業材料の研究は1970年代になって再び注目され,発電用および自動車用のセラミックガスタービン研究として再開された.サーメットに替わる新たな窯業材料の候補は,窒化ケイ素や炭化ケイ素に代表される非酸化物系セラミックスである.ガスタービンブレードとしてはまだ実用化に至っていないが,そのミニチュア版である自動車用のセラミックターボチャージャ (排気の流れを利用してタービンを回転させ,その回転力はシャフトで結合されたコンプレッサーに伝えられ,エンジンに送り込む空気の圧力を高める装置) が窒化ケイ素製タービンを用いて1985年に商業化された[5].非酸化物系セラミックスの自動車部品への応用は減退したが,半導体製造や自動車部品の製造プロセスへの応用は拡大している[6].

ドイツで開発が進められたジェット機が高い高度まで上昇すれば気圧低下によるパイロットへの影響が懸念される.また,冷たい海に不時着すれば低体温症の懸念がある.そこで航空機が気圧の低い上空を飛行するときや冷たい海に不時着したときのパイロットの身体に及ぼす影響を調べる研究が行われた.

ダッハウ強制収容所に建てられた航空医学研究所・科学研究センターではユダヤ人を被験者とする人体実験が行われた.「L」として記録される被験者は減圧室内で大気圏外と同等のレベルまで室内の気圧を下げられ,絶命するまでの数分間の映像はニュルンベルクでの科学会議で上映された[3].その会議では人間が凍死するまでのプロセスを調べた低体温症の実験 (凍結実験) も報告された.航空機が気圧の低い上空を飛行するときや冷たい海に不時着したときのパイロットの身体に及ぼす影響を調べるために行われた人体実験だが,被験者の大部分が絶命するまで実験が続けられたのは,凍死した人間を生き返らせることも研究目的のひとつだったからだ[1].なお,生き残った被験者も実験終了後に抹殺されてしまったので,戦後の裁判で「人類に対する犯罪」を犯したとされる被告たちを告発する証人はいなかった[2].その会議の議長を務めたのは,航空医学研究所の責任者を務めていたシュトルクホルト (Hubertus Strughold) だ.

1947年にシュトルクホルトはアメリカに移り,1954年に完成した宇宙カプセル・シミュレーターを使った実験は大きな関心を集めた[1].そしてシュトルクホルトの過去についての関心も高まり,1973年にナチス犯罪追跡センターと移民帰化局による調査が行われ,1974年のニューヨークタイムズには凍結実験の記事が掲載された.しかし,世間の関心もいつしか消え去り,1977年には航空宇宙医学校にシュトルクホルトを記念する航空医学図書館が建てられ,そこのロビーにはシュトルクホルトの記念碑が公開された.シュトルクホルトは「宇宙医学の父」としてアメリカ軍とアメリカの宇宙計画に重要な貢献を果たしたのだが,その貢献が被験者の絶命を伴う人体実験で得られた知識に基づいたことは否定しがたい.

化学兵器の開発には毒ガス (厳密には気体に限定されず,常温で液体の致死性神経剤が主流) の製造とその解毒剤の開発がセットであり,生物兵器の開発にも病原体 (ペスト,コレラ,炭疽菌,腸チフスなど) の貯蔵・撒布方法とワクチン開発がセットになる.毒ガスの解毒剤はガスマスクに装填され,細菌兵器を使用するときにはワクチンによってあらかじめ免疫を獲得しておくことが重要だからだ.

ドイツが開発したタブン (C₅H₁₁N₂O₂P),サリン (C₄H₁₀FO₂P),ソマン (C₇H₁₆FO₂P) といった神経ガス (致死性神経剤) は連合軍のマスタードガス (C₄H₈Cl₂S) よりはるかに優れていた[2].マスタードガスは第一次世界大戦中にドイツが実戦で使用したびらん剤 (皮膚や目や肺などの粘膜に水ぶくれを起こす) だが,ドイツは第二次世界大戦中にも毒ガス開発をさらに進めていたのである[注5].そしてドイツが開発した毒ガス技術は,第二次世界大戦後にソ連とアメリカに移転される.

タブンの発明者はゲルハルト・シュラーダー (Gerhard Schrader) らだが,その製造はオットー・アンブロス (Otto Ambros) の担当で,ポーランドのデュヘルンフルト村の近くに建設されたIGファルベン社の工場 (半地下構造の工場で,その屋根の上にはカモフラージュのために樹木が植えられていた) で1942年から行われていた.戦後,それを発見したソ連軍は工場を解体して運び去り,スターリングラード (現在のヴォルゴグラード) 郊外のベケトフカに復元してタブンの工業生産を始めた[1].

戦後,ニュルンベルクで行われた裁判でアンブロスは戦争犯罪人として8年の実刑判決を宣告されたが,3年後に釈放された後,非常に裕福な実業家として大きな成功を収めた[1].アメリカの化学会社W・R・グレース,米エネルギー省などで働き,ドイツ国内の大企業 (電機メーカーAEG,ヒルベニア鉱山会社,化学会社SKWなど) の重役にも名を連ねたのだ.このような成功はIGファルベンのアウシュヴィッツ工場 (企業直結型の強制収容所) での合成ゴムの製造やデュヘルンフルト村の近くの地下工場でのタブン製造の実務経験とは無縁ではないだろう.アウシュヴィッツ工場の強制労働者は6万人のうち3万2000人が酷使されて死亡し,その労働者の平均生存期間は3ヶ月だった[注6].そしてタブン製造工場では,毒ガスを砲弾に充填する危険有害業務を数千人の強制労働者に行わせていた[1].

ガスマスクの製造を指揮していたのは,親衛隊准将ヴァルター・シーバー (Walter Schieber) とヒトラーの侍医カール・ブラント (Karl Brandt) で,ガスマスクの信頼性は強制収容所の囚人を使ってデュヘルンフルトでテストされた[1].後に,シーバーは毒ガス量産の経験を買われて米軍でのサリン製造に貢献したが,精神障害者や身体障害者を「生きるに値しない命」と見なして強制的な安楽死を行う政策 (T4作戦) を指揮し,強制収容所での人体実験を発案したブラントはニュルンベルク継続裁判 (第1号事件:医師裁判) で有罪となって1948年に処刑された[7, 8, 9].

アメリカは北ミュンスターの森に隠されていたタブン入り爆弾を発見し,530トンのタブン神経剤をアメリカに輸送したが,タブンを自力で大量生産するところまでは漕ぎつけなかった[1].戦後の米ソ対立が深まる中で,毒ガス製造でソ連に後れを取ることを避けたいアメリカの選択はドイツ人化学者の起用であった.アメリカ陸軍は,1947年にペーパークリップ作戦の契約を結んで,毒ガス合成の専門家であるフリッツ・ホフマン (Fritz Hoffmann) をエッジウッド兵器工場でのタブン合成に取り組ませた[1, 10].

アラバマ州マッスル・ショールズとロッキーマウンテン兵器工場で年間数千トンのサリン神経剤生産が開始されたのは,元親衛隊准将ヴァルター・シーバーとIGファルベン化学者チームがサリンの秘密を提供したからだ[1].1957年にサリンの備蓄が完了すると,兵器工場はVXガス (C₁₁H₂₆NO₂PS) の生産に移った.VXガスは1952年にイギリスで開発されたのだが,アメリカではフリッツ・ホフマンがその製造に取り組んだ.

生物戦の研究拠点はストラスブール大学に置かれていた.オイゲン・ハーゲンはワクチン専門のウイルス学者,ヴァルター・シュライバー (Walter Schreiber) はワクチン開発の責任者,そしてクルト・ブローメ (Kurt Blome) は腺ペスト兵器の開発者であった[1].ハーゲンはストラスブール大学で行っていたワクチン開発で,囚人を使った人体実験を行っていたのだが,戦争が終わるとソ連占領地区に逃れ,ロシア人のために働くことになった.テューリンゲンの森の中にあるゲーラベルクという町に連合軍が発見した施設は鬱蒼とした木立に隠され,研究室,隔離棟,動物舍が備えられていた.そこが囚人を使った人体実験が行われていた生物兵器研究施設であったと考えられている.

ドイツの生物兵器開発を主導したヴァルター・シュライバーは1951年にアメリカ空軍航空医学校のスタッフに加わっていたが,ボストン・グルーブ誌に元ナチ幹部であるとの記事が掲載されるとスキャンダルとして盛り上がった[1].そこでアメリカ空軍はシュライバーをアルゼンチンに移送し,そこで彼は余生を過ごした.ニュルンベルク継続裁判で無罪となったクルト・ブローメは1952年からフランクフルト郊外にあるキャンプ・キングで薬物を使用した米軍の尋問プログラムに関与した.そこでは自白剤としてLSD (リゼルグ酸ジエチルアミド) をはじめとする人間の行動をコントロールする薬物のテストが行われた[1].

科学と戦争の融合はドイツだけではない.日清戦争中に死亡した日本兵の80%が病死であったことを知った政府は,戦場での疾病罹患率の低下を目指した研究プロジェクトを開始した.石井四郎博士は汚水を浄化して安全な飲料水にする濾過装置 (石井式濾水機) を開発し,戦場での疾病罹患率は劇的に低下した[3, 11].20世紀初頭の日本の疫学は,衛生管理を徹底する新機軸を打ち出して世界のトップレベルに達していたのだ.

1931年に始まる石井四郎のもう一つのプロジェクトが細菌兵器の開発だ[12, 13].日本陸軍の防疫給水部 (731部隊) は,被験者の中国人捕虜にチフス菌を感染させて,発症と死亡に至るまでの時間を計測した[3].石井四郎の生物兵器の開発は,アメリカのレベルを凌駕していた[注7].

細菌兵器は1940年に実戦投入され,腺ペストに感染した蚤を爆撃機から撒布したのだが,上空からの蚤の撒布の効果は風向きの影響が大きい.731部隊がコレラ菌や腸チフス菌で汚染された蚤を1942年に浙江省に飛行機で撒いたときには,風向きが変わって関東軍が待機していた浙江省の郊外にまで吹き飛ばされ,数千人の日本兵が感染し,死者数も1700人に上った[11].ロスアンゼルスに病原菌を投下する計画もあったのだが,「そんなことをすれば日本は世界から軽蔑される」との理由で却下された[3].石井は「アメリカ軍はナパームという残虐な兵器で日本兵を焼き殺しているのだから何の問題もない」と反論したのだが,石井の主張は通らなかった.

戦後の日本で開廷された国際軍事法廷 (東京裁判) で石井を戦犯として裁くことは確実とみられていた.中国人捕虜に対する人体実験を1939年に731部隊が行った証拠が提出されたのだが,アメリカは不起訴を決定した.生物兵器のノウハウをアメリカに提供する見返りに刑事責任を追及しないという司法取引に同意したからだ[3].

第二次世界大戦の敗戦国は戦勝国によって裁かれた.戦勝国が敗戦国の一般市民を殺害したことは不問とされたが,敗戦国が捕虜やユダヤ人を人体実験や強制労働に従事させたことは違法 (通例の戦争犯罪に加えて人道に対する罪) とされた.しかし,兵器開発に携わった科学者は戦利品としての価値があり,特にロケット技術の開発に携わった科学者の価値は高かった.価値の高い人材は科学者のみならず,スパイ活動の専門家も価値が高く,戦後は連合国の諜報機関に再雇用された.敗戦国の軍事技術開発に携わった科学者やスパイ活動の専門家はペーパークリップ作戦によって覇権国家アメリカを堅固なものにしたのだ.なお,裁かれたのは敗戦国の関係者に限られるから,原子爆弾やナパーム弾を開発して敗戦国の多くの一般市民を殺害した戦勝国の行為 (略奪や強姦を含む) は不問とされ,残虐な兵器で一般市民を殺害したからといっても,世界から軽蔑されることもなかった.

[注1] ニュルンベルク裁判では,国際軍事法廷と12のニュルンベルク継続裁判が開かれた[8, 9].国際軍事裁判では米英仏ソによってナチ体制指導者24名の戦争犯罪人が起訴され (1名は起訴取り下げ,1名は起訴中に死亡,被告人22名のうち12名に死刑判決),4つの訴因 (共同謀議,平和に対する罪,戦争犯罪,人道に対する罪) が取り上げられた.ニュルンベルク継続裁判ではナチ親衛隊 (SS) に所属していたことに対する犯罪組織成員罪がそれに加わり,アメリカによって177名が裁かれ,24名に死刑判決 (その後,1950年までに18名の死刑執行) が下された[14].戦争犯罪の裁判は英仏ソが占領した地域内,ドイツが占領していた国々およびドイツ連邦共和国 (西ドイツ) でも行われ,イギリス占領区では240名,フランス占領区では104名の死刑判決が下され,ソ連占領地区 (その後のポーランドの一部と東ドイツ) では4万5千名が有罪判決を受けて,その約3分の1はソ連に連行されて強制労働に従事させられた[14].強制収容所の監視員の多くは死刑 (ダッハウ強制収容所の監視員40名のうち36名,マウトハウゼン強制収容所の監視員61名のうち58名が死刑) に処せられ,西ドイツにおいてもナチ犯罪の裁判が行われて1992年までに163名に終身刑が下されている[14].ニュルンベルク裁判以降もナチ犯罪裁判は継続され,20世紀末の時点で米英仏占領区では806名に死刑宣告が出され,486名が処刑された[9].そしてナチ協力者の多くも有罪 (オーストリアでは13,625名のオーストリア人が有罪判決,ベルギーでは約40万人のナチ協力者のうち250名を処刑,フランスではパリ解放後10,519名を処刑,ドイツに協力したデンマーク人の46名に死刑が執行され,オランダでは18名のドイツ人と152名のオランダ人に死刑判決,ノルウェーでは15名のドイツ人と30名のノルウェー人に死刑判決,ブルガリアでは2,730名の自国民に死刑宣告,ハンガリーでは380名に死刑宣告,イタリアでは自国のファシスト約45,000人が処刑) とされた[9].ニュルンベルク裁判で死刑判決を下された被告人の多くは,戦争を指揮した者が指示した業務を従順に励行した者である.「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は,ドイツの降伏後の1945年6月26日に開催されたロンドン会議で議論され,日本の降伏前の1945年8月8日に制定されたニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章・第六条に織り込まれた.真っ当な法治国家ならば法の不遡及原則に基づき,法令の施行以前に遡って適用されることはないが,国際軍事法廷では法の不遡及原則に反する事後法が適用された.極東国際軍事裁判 (東京裁判) においても,この憲章規定に由来する戦犯のA級 (平和に対する罪)・B級 (戦争犯罪)・C級 (人道に対する罪)という区分が踏襲され,東京裁判では28名のA級戦犯が起訴された (2名は判決前に死去,1名は訴追免除となり,判決を受けた25名のうち死刑判決は7名).そして日本のBC級戦犯は,連合国の中の7ヶ国 (アメリカ,イギリス,オランダ,フランス,オーストラリア,中国,フィリピン) でそれぞれ裁判 (49法廷で行われたが,ほとんどが非公開) が行われ,5644人の戦犯のうち934人の死刑が確認された[15a, 15b].死刑判決を下された被告人の多くは,戦争を指揮した者が指示した業務を従順に励行した者である.

[注2] アメリカ陸軍対敵諜報部隊 (CIC: Counter Intelligence Corps) はナチドイツの親衛隊 (SS) 将校でゲシュタボ隊長でもあり「リオンの虐殺者」の異名を持つクラウス・バルビー (Klaus Barbie) をスパイ活動のために1947年に採用した[2, 16].ところがフランスがバルビーの引き渡しを迫ったので,アメリカ陸軍は1950年に彼を南米に逃がし,バルビーはボリビアの治安顧問として独裁政権を支えた.バルビーがフランスに送還されて刑務所に収監されたのは,独裁政権が倒れた1982年である.フォン・ボルシュヴィング (Otto von Bolschwing) もCICに採用され,後にアメリカ中央情報局 (CIA: Central Intelligence Agency) に移り,ゲーレン機関 (Gehlen Organization) に派遣された[15, 17, 18].ボルシュヴィングは1941年のブカレスト虐殺を引き起こした元SS将校で,この事件によってナチス政権に逮捕された経歴がある[2, 18].ラインハルト・ゲーレン (Reinhard Gehlen) は,第二次世界大戦中にドイツのソ連占領地区での秘密工作や情報収集を行っていたドイツの情報機関のメンバーで対ソ連諜報を担当していた.そしてゲーレンが1946年にアメリカ軍情報機関に協力して設立された対ソ諜報組織がゲーレン機関である[17, 18].アメリカ陸軍は人材の有効活用を重視し,多くの元ナチおよび元ナチ協力者は刑務所に収監されて無為な時間を過ごすのではなく,アメリカ陸軍に雇用されてゲーレン機関の中核として有意な活動に従事した.

[注3] セルゲイ・コロリョフはソビエト連邦で初の液体燃料ロケットの打上げ成功を導いたが,1938年に内務省に逮捕されてシベリアの収容所送りとなった.コロリョフは1944年に解放され,カザンでロケットの研究に取り組んだ.そして1945年にはベーネミュンデに赴いて,Ⅴ2ロケットの調査を行った.1957年にコロリョフの設計したロケット (新型のICBM) での人工衛星スプートニクの打ち上げに成功し,1959年に打ち上げられたルナ2号は月面に初めて到達し,ルナ3号は月の裏側を世界で初めて撮影した.そして1961年にはユーリイ・ガガーリンを乗せたボストーク1号が人類初の有人宇宙飛行を成し遂げた.コロリョフが死んだのは1966年だ.直腸のポリープ摘出手術 (腹部を切開して見つかった癌性腫瘍も摘出した) は成功したのだが,その30分後に脈が止まった.収容所での尋問で1938年に顎が砕かれていたために,チューブを肺に挿入することができず麻酔の仕方が難しかったことがその一因とされる.ソビエト連邦での宇宙開発については,収容所送りとなったロシア人の貢献は大きかったが,ドイツから強制連行されたロケット技術者の貢献は小さかった.例えば,ゴロドムリャ島で研究をさせられたヴェルナー・アルブリング (Werner Albring) は,東ドイツに帰還後の1957年に書いた本のなかで,ソビエト連邦におけるドイツ人科学者の作業と研究の諸条件はひどく旧式なもので,同時代の文献も与えられずに研究を行ったために,ソビエト連邦での宇宙開発への貢献は米国に行ったドイツ人科学者よりはるかに低かったと記している[7].実際,拉致された200名のドイツ人専門家のうち177名はコロリョフの指揮する第88研究所に配属され,1947年6月から9月までは実験室の立ち上げや試験設備の設計および技術資料の復元などでソ連専門家を支援したが,1948年になるとゴロドムリャ島の研究所に移送された[19].湖岸線に沿って高い柵が設けられ,監視員が見張っている島である.研究所では常時180人のドイツ人を含む300人が働いていたのだが,外部との手紙のやり取りは検閲され,外界からの情報が制限されたなかでの研究であった[20].島のドイツ人は1952年から帰国が始まり,1958年までに全員が東ドイツに帰還したが,自由意志でソ連に残留することを選択した者は誰もいなかった[20].ソ連はドイツが開発した技術を戦利品と見なして技術移転を図ったのだが,人材を戦利品として有効活用することには消極的だった.

[注4] 戦時中のドイツでタービン翼用の窯業製品の研究が行われていた.1944年にはベルリンでジェット航空機用耐熱材料に関する会議が開かれ,その1ヶ月後にも同様の会議が開催された[21].検討された窯業材料の中では焼結アルミナが最も優れていたが,脆いという本質的な欠点があるので,多くの研究は回転部の翼部分のみに窯業製品の応用を想定していた.耐熱合金に代わるジェットエンジン材料としてサーメットが注目され始めたのは大戦末期であった[22].サーメットは窯業材料と金属の組み合わせだ.窯業材料としてはアルミナなどの酸化物,チタンやジルコニウムなどの炭化物や窒化物,さらに炭化ホウ素やホウ化物なども候補となり,それと組み合わせる金属としてはニッケル,コバルト,鉄,クロムなどが候補になる[23].ドイツではAl₂O₃-Feサーメットが研究されていたが,米国では1949年頃から研究が盛んになりAl₂O₃-Cr系,炭化チタニウム系,炭化ジルコニウム系,炭化ホウ素系などの研究が行われた[22, 24].しかし,衝撃強さが低いという致命的な欠点のためアメリカ空軍はジェットエンジンの動翼用としてのサーメットの研究を中止し,耐食材料および切削工具への応用が進められた[25, 26, 27].ただし,ジェットエンジンの燃焼菅やタービン翼へのセラミックコーティングの研究は継続され,現在ではジェットエンジンやガスタービンエンジンの高温部品に熱遮蔽コーティングが施されるようになっている[24, 28, 29, 30].その後,窒化ケイ素や炭化ケイ素といった非酸化物系セラミックスの発電用および自動車用ガスタービンへの応用研究を経て,SiC繊維/SiC系複合材料に代表されるCMC (Ceramic Matrix Composites:セラミックス基複合材料) をジェットエンジンのタービン材料として応用する研究が進められている.戦時中のドイツで始まったジェットエンジン用窯業材料の研究開発は,サーメット,非酸化物系セラミックス,そしてCMCへと断続的に継承された.

[注5] IGファルベン社で殺虫剤開発に携わっていたゲルハルト・シュラーダーらはタブン (シアノ基を取り込んだ有機リン酸化合物) を1936年に,サリン (フッ素を含む有機リン酸化合物) を1938年に開発した[10].なお,サリン (SARIN) の名称は研究開発にかかわった主要メンバーに因んだものだ.シュラーダー (Gerhard Schrader) とオットー・アンブロス (Otto Ambros),そして陸軍軍需品局のルドリゲル (Gerhard Rudriger) とファン・デル・リンデ (Hans-Jürgen von der LINde) である.その後,カロテノイドと酵素の研究で1938年にノーベル賞を受賞したリヒャルト・クーン (Richard Kuhn) がソマンを1944年に開発した.この3種を比較するとサリンが最も軍事的な価値が高い.サリンはタブンより毒性が強く,揮発性と安定性も高い.ソマンは毒性と安定性においてサリンよりさらに優れるのだが,信頼できる解毒剤が存在しないという大きな欠点がある.VXガスは1952年にイギリスのICIの防護研究所に勤務するラナジット・ゴーシュ (Ranajit Ghosh) らが開発した有機リン酸系化合物の殺虫剤 (商品名:アミトン) に由来する[10, 31].アミトン類の化合物は毒性が極めて高くV剤 (アミトンはVG) と命名された.1950年代半ばのアメリカ陸軍化学センターでは約50種類のV系神経剤が合成され,その中から軍事利用性に優れたVXガスが選択されて開発が進められた.なお,化学兵器に使用される薬物は毒ガスと総称されるが,これらは必ずしも気体とは限らない.毒性の液体は気化させるかエアロゾルにしてその効力が発揮される.マスタードガスやサリンは常温で液体だから,化学兵器として使用するときには爆発の衝撃で飛散させることが一般的だ.日本軍の化学兵器については,大久野島の陸軍造兵廠忠海製造所で毒ガスの製造が行われていた[31].そして陸軍習志野学校 (跡地は習志野の森) は毒ガス戦に対する防御法の教育訓練を行う学校であった[31].毒ガスは致死性の化学兵器だが,暴動鎮圧などに用いられるのは非致死性の化学兵器 (無傷害化学剤) だ.CS (オルトクロロベンジリデンマロン酸ニトリル) とCN (クロロアセトフェノン) に代表される催涙剤は一時的な失明状態を作りだす[32, 33, 34].中枢神経に作用して意識障害を引き起こす無能力化剤には,気が狂ったような状態が数時間から数日間続く効果があり,その候補としてはBZ (3-キヌクリジニルベンジラート) やLSDが検討されてきた[32, 33].暴動鎮圧に催涙剤は有効だが,無能力化剤の効果は疑問視されている.

[注6] 1883年にフランシス・ゴルトン (Francis Galton) が考えた優生学は好ましい子孫を奨励する科学であり,アルフレッド・プレッツ (Alfred Ploetz) の人種衛生学 (人種衛生学会の設立は1905年) は人的品種改良の概念であった.そして法律家のカール・ビンディング (Karl Lorenz Binding) と医師のアルフレート・ホッヘ (Alfred Erich Hoche) が1920年に出版した小冊子によって「生きるに値しない命 (Die Freigabe der Vernichtung Lebensunwerten Lebens)」という表現が浸透した[35].ドイツ人種衛生学の実践が強制断種と強制安楽死である[7].1933年の特別法による強制断種の対象者は遺伝性の視覚障害者,聾唖者,アルコール中毒者などだが,その後,服役囚,売春婦,ジプシー,ユダヤ人へと拡大され,1934年から1944年の間に30万から40万人の人間が強制断種されたと推定されている.次に精神・身体の異常をきたした子供の死が1938年に合法化し,入院中の身体障害児の殺害が始まった.安楽死担当局が設置され,1939年に始まった「T4作戦」では精神病施設の収容者が一酸化炭素で殺され,1941年の実質的な名称変更によって始まった「13f14作戦」では計画的大量殺人の対象が強制収容所の囚人で労働に耐えられなくなった者や生きるに値しない命 (共産主義者やユダヤ人を含む) にまで拡張された[7, 36a, 36b, 36c].そして1942年のヴァンゼー会議 (Vannsse Conference) でユダヤ人問題の最終的解決を図ることが確認されると,ユダヤ人の根絶を目的に組織的な大量虐殺 (ホロコースト) が推進される.1942年から1944年まで実行されたラインハルト作戦はポーランドのユダヤ人を絶滅収容所へ移送してガス室で殺害する計画だ.反ユダヤ主義はキリスト教の信仰に由来するが,ドイツにおけるユダヤ人への迫害は次第に過激になった.まずは1935年のニュルンベルク人種法によってユダヤ人迫害の法制度が整備され,1938年の水晶の夜 (クリスタルナハト) 事件では国外移住が促され,フランスに勝利した1940年にも仏領マダガスカルへの国外追放が議論された.そして1939年のポーランド侵攻によりユダヤ人はゲットーに隔離され,餓死と病死への道が拓かれた.海外からの食糧輸入が大幅に減少して食糧問題も深刻になった時期でもあり,例えば,ワルシャワ・ゲットーにはワルシャワ人口の約30%の45万人が詰め込まれ,食糧配給は必要最低カロリーの9%にも満たなかったのだ.1941年に始まるソ連侵攻はソ連住民の餓死によって,その分の食糧をドイツ軍民に供給することを前提に計画されたものだが,計画を実施した結果は食糧問題の解決に需要削減以外の選択肢が消滅したことだ.人体焼却の技術開発も進められ,ドイツのエンジニアは圧縮空気を利用した火力節減装置によって,消費燃料の低減と灰化過程の時間短縮を実現した.そして1941年にはアウシュヴィッツ強制収容所を拡大し,合成燃料と合成ゴム製造施設を建設するための強制労働者をIGファルベンに提供した.強制労働者は酷使された末の死によってユダヤ人根絶計画の一端を担うのみならず,健康が維持されている期間に限って戦時下の使い捨て労働力として軍需生産を支える役割を担ったのだ.労働を通じての抹殺である.1933年にドイツ国内に暮らしていたユダヤ人は約60万人だが,ドイツが占領したヨーロッパの国々には約900万人が暮らしていて,そのうちの約600万人が射殺・強制安楽死,餓死・病死,および労働を通じての抹殺を含めたホロコーストで死亡した.IGファルベンは,当時のドイツが輸入することのできない石油と天然ゴムの代替としての合成燃料と合成ゴム (ブタジエンをナトリウム触媒で重合するブタジエンゴム) の生産に取り組んだ.幸いなことに,ベルギウス (Friedrich Bergius) が1913年までに石炭を水素化して合成石油を製造する方法を開発し,1914年にはフィッシャー (Franz Fischer) とトロプシュ (Hans Tropsch) が一酸化炭素と水素からの炭化水素合成法 (FT法:フィッシャー・トロプシュ法) を開発していた[37, 38, 39, 40].IGファルベンはベルギウス法でハイオクタンの航空燃料や高品位ガソリン,FT法でディーゼルオイル,潤滑油やワックスを製造した.

[注7] 生物兵器の起源は明確ではないが,動物の死体や兵士の死体を敵の井戸に投げ入れることは古くから行われていた.1344年にはタタール軍がヴェネチア軍の支配するカーファ市内にペストで死亡した遺体をカタパルトで投げ入れ,1710年にはロシア軍がスウェーデン軍の要塞内にペストで死亡した兵士の遺体を投げ込んだ[31].北米では英仏植民地戦争 (フレンチ・インディアン戦争) が欧州の七年戦争の2年前 (1754年) から始まり,フランス軍はインディアンとの同盟によって優勢に戦闘が行われていたのだが,最終的にはイギリス軍がカナダを制圧した.このイギリス軍がインディアンに対して使用した生物兵器が毛布とハンカチである[31].1763年頃,イギリス軍は2枚の毛布と1枚のハンカチを天然痘の病院から持ち出してアメリカ先住民に贈ったのだ.その結果,種痘を受けていたイギリス軍に被害はなかったが,天然痘が猛威を振るい先住民に夥しい死者が出た.イギリスは生物兵器の開発をさらに進め,炭疽菌爆弾の実験を1942年にグリニャード島で行った.炭疽菌は土壌中の常在細菌で,皮膚の傷口から侵入すると皮膚炭疽を発症し,炭疽菌の芽胞が呼吸器を介して肺に到達すると肺炭疽と呼ばれる重篤な疾患を起こす.炭疽菌芽胞は過酷な環境でも耐久性が高く,数年間も感染力を維持する特徴があるために生物兵器として最も有望と考えられている.しかもワクチンについても弱毒化した炭疽菌を使ってルイ・パスツールが1881年に既に開発していた.アメリカでは1943年からデトリック演習場 (Camp Detrick,1956年にFort Detrickとなった) に設けられた研究所と発酵工場で,アイラ・ボールドウィン (Ira Baldwin) が自然界に存在する最も強力な毒素であるボツリヌス毒素の製造に取り組み,イギリスから持ち込まれた炭疽菌の大量生産にも取り組んだ[12].生物兵器の開発には病原体や毒物の生産のみならず,それを消化管,血管および呼吸器系を通じて人体に注入する手法の技術開発も重要だ.消化管への注入は食べものや飲み水の中に忍ばせる手法の開発,血管への注入については蚊や蚤を媒介として感染を広める工夫がなされてきた.そして呼吸器系を通じて人体に注入する手法は空気中にばら撒くことだ.貯蔵中に効力を失わず病原体が生きた状態で肺の深部に到達するような粒子径のエアロゾル散布を実現するには,凍結乾燥法やマイクロカプセル化が効果的とされる[32].ドイツの腺ペスト細菌兵器は未完成だったが,731部隊は腺ペストに感染した蚤を穀粒とともに空から撒布する方法や陶器製の爆弾に詰めて病原体を爆発から保護する方法を開発した[12, 31].なお,ペスト菌の主な宿主はネズミでそれは蚤を経由してヒトにも感染して大きな被害を与えるのだが,ペスト菌が細菌兵器用の病原体に適しているかは疑問だ.ペスト菌を蚤の体内で長期保存することが容易ではないことに加え,有効なワクチンがないことも自軍が被災するリスクを高めるからだ.戦時中にドイツと日本が行っていた生物兵器の研究がイギリスの炭疽菌爆弾のレベルを超える高いものであったかは疑わしいものの人体実験だけは確実に先行していた.ドイツと日本の細菌兵器研究を継承したのはソ連とアメリカだ.ソ連は日本軍から押収した設計図をもとにして,1946年に陸軍生物兵器開発施設をスヴェルドロフスク (現在のエカテリンブルク) に建設して研究を進め,アラル海のリバース島で動物実験を行い,天然痘ウイルスの培養をザゴルスク (現セルギエフ・ポサド) の極秘研究所で行った[41].ソ連崩壊後の1992年には,ロシア人科学者がイラクと北朝鮮に炭疽と天然痘にかかわる生物兵器開発の技術提供をしたとも伝えられている[41].戦後のアメリカの陸海空軍とCIAは一丸となって,陸軍基地フォート・デトリック (Fort Detrick),ユタ州ダグウェイ実験場 (Dugway Proving Ground) 付属の生物兵器試験施設グラニット・ピーク (Granite Peak),そして東京北部にあった極東軍医務班406医学研究所 (Far East Medical Section's 406 Medical General Laboratory) と8003極東軍医学研究所 (8003 Far East Medical Research Laboratory) で生物兵器の開発に取り組んだ[42].中国と北朝鮮は,朝鮮戦争の際にアメリカ軍が伝染病に感染した昆虫を広範囲に落とし,その地域では従来ほとんど見られなかった炭疽菌と脳炎による死者が多数出ていると非難した[12, 13, 42].なお,アメリカは生物兵器開発を治療法やワクチンのあるものに限定していたが,ソ連の発想は異なり,治療法やワクチンが開発されていない病原体を最良と考えていた[41].現在では,遺伝子組み換え技術によって抗生物質の効かない細菌や新規なウイルス開発が可能となり,2002年にはポリオウイルスの化学合成に成功したことが発表された[43].生物兵器の開発は治療法や予防法のない感染症の蔓延によって人類を絶滅させる攻撃能力を秘めているが,グリニャード島の例からも明らかなように,無人島を病原体で汚染することによって異国からの侵入を防ぐ防波堤として機能する防衛能力も秘めている.

文献
1.アニー・ジェイコブセン,ナチ科学者を獲得せよ,太田出版 (2015).
2.レーナ・ギーファー,冷戦の闇を生きたナチス,現代書館 (2002).
3.アーネスト・ヴォルクマン,戦争の科学,主婦の友社 (2003).
4.石澤和彦,航空用ガスタービンエンジンの変遷と将来展望,ターボ機械,25 [1] 48-56 (1997).
5.岡田明,構造セラミックスへの挑戦,セラミックス,40 [4] 259-275 (2005).
6.岡田明,自動車の技術進歩とセラミックス,セラミックス,47 [6] 398-404 (2012).
7.ジョン・コーンウェル,ヒトラーの科学者たち,作品社 (2015).
8.アンネッテ・ヴァインケ,ニュルンベルク裁判,中央公論新社 (2015).
9.芝健介,ニュルンベルク裁判,岩波書店 (2015).
10.ジョナサン・B・タッカー,神経ガス戦争の世界史,みすず書房 (2008).
11.ケネス・L・ポート,軍医・石井四郎,花伝社 (2025).
12.エド・レジス,悪魔の生物学,河出書房新社 (2001).
13.ピーター・ウイリアムズ, デヴィド・ウォーレス,七三一部隊の生物兵器とアメリカ,かもがわ出版 (2003).
14.芝健介,ホロコースト,中央公論新社 (2008).
15.例えば,(a) 田中宏巳,BC級戦犯,筑摩書房 (2002).
 (b) 林博史,BC級戦犯裁判,岩波書店 (2005).
16.クリストファー・シンプソン,冷戦に憑かれた亡者たち,時事通信社 (1994).
17.関根伸一郎,ドイツの秘密情報機関,講談社 (1995).
18.ダニ・オルバフ,ナチス逃亡者たち,朝日新聞出版 (2024).
19.冨田信之,ロシア宇宙開発史,東京大学出版会 (2012).
20.クルト・マグヌス,ロケット開発収容所,サイマル出版会 (1996).
21.浜野健也,戦時下ドイツのタービン翼用窯業製品の研究,窯業協會誌,62 [701] 674-678 (1954).
22.吉木文平,ジェット・エンジンと耐火物,窯業協會誌,61 [682] 162-172 (1953).
23.吉木文平,サーメット,日本機械学会誌,60 [458] 267-274 (1957).
24.山内俊吉,最近のサーメットについて,材料試験,4 [20] 72-77 (1955).
25.松本秀夫,斉藤進六,サーメット,窯業協會誌,68 [776] C256-C263 (1960).
26.河嶋千尋,ジェット・エンジンおよびロケット用セラミックス[II],日本航空学会誌,8 [79] 225-236 (1960).
27.久保輝一郎, 花沢孝,サーメット,電気化学および工業物理化学,31 [7] 537-545 (1963).
28.河嶋千尋,ジェット・エンジンおよびロケット用セラミックス [I],日本航空学会誌,8 [77] 158-168 (1960).
29.大寺一生,津田義弘,荒木隆人,森信儀,佐藤彰洋,ジェットエンジンへの耐熱コーティング,表面技術,63 [1] 19-23 (2012).
30.有川秀行,児島慶享,ガスタービン用材料の耐熱コーティング,表面技術,52 [1] 11-15 (2001).
31.井上尚英,生物兵器と化学兵器,中央公論新社 (2003).
32.E・クロディー,生物化学兵器の真実,シュプリンガー・フェアラーク東京 (2003).
33.井上尚英,化学兵器によるケミカルハザードとその対策,ファルマシア,40 [3] 230-234 (2004).
34.Anthony T. Tu,化学兵器の毒作用と治療,日本救急医学会雑誌,8 [3] 91-102 (1997).
35.森下直貴,佐野誠,「生きるに値しない命」とは誰のことか,中央公論新社 (2020).
36.例えば,(a) F・K・カウル,アウシュヴィッツの医師たち,三省堂 (1993).
 (b) ヒュー・G・ギャラファー,ナチスドイツと障害者「安楽死」計画,現代書館 (2017).
 (c) スザンヌ・E・エヴァンス,障害者の安楽死計画とホロコースト,クリエイツかもがわ (2017).
37.真田雄三,石炭液化技術と液化油の燃料性状について,日本機械学会誌,83 [738] 558-564 (1980).
38.三井啓策,旧海軍燃料廠におけるベルギウス法の研究と結果,燃料協会誌,54 [10] 846-856 (1975).
39.里川重夫,FT合成反応に必要な触媒技術,マリンエンジニアリング,59 [3] 347-350 (2024).
40.三輪宗弘,ドイツの石炭液化成功物語と海軍の技術選択の失敗,経済史研究,12 63-80 (2009).
41.ケン・アリベック,バイオハザード,二見書房 (1999).
42.W・ラフルーア,G・ベーメ,島薗進,悪夢の医療史,勁草書房 (2008).
43.山内一也,忍び寄るバイオテロ,日本放送出版協会 (2003).

コメントを残す