普通の人々の普通の振る舞いと稀有な変わり者

材料科学の実験対象は物であるが,心理学実験の実験対象は人である.さまざまな心理学実験が行われてきたが,スタンレー・ミルグラムフィリップ・ジンバルドーの行った実験は衝撃的だったのでよく知られている.

ミルグラムのアイヒマン実験では多くの人々が自分の信念を貫くことなく権威者に隷属することが認められ,ジンバルドーのスタンフォード監獄実験では権力を与えられた普通の人々が,それを行使してサディスティックに振る舞うようになったのだ.

実験の概要を掻い摘んで紹介しよう.

[ミルグラムのアイヒマン実験]
スタンレー・ミルグラムが行ったアイヒマン実験は次のようなものだ.研究者が記憶実験の被験者を広告で募集する.研究者は応募した被験者に教師役と生徒役を割り当てるが,それは次のようにして行われた.被験者ともう1人がくじを引く.被験者は必ず教師役に割り当てられる.もう1人は常に生徒役となるサクラなのだ.

教師は生徒に記憶すべき単語を読み上げ,その後,生徒が正しく記憶したかどうかをテストする.生徒役が答えを間違った場合,教師役は生徒に罰として電気ショックを与える.電気ショック発生装置には30のスイッチがあり,それは電圧15ボルトから始まり,1つ進むと15ボルトずつ上がるようになっている.

「生徒に罰を与えられるように準備します」と研究者がいうと,生徒は腕をひもで縛られて固定され,右腕に電極が取り付けられる.答えを間違うと,隣室で教師役の被験者が電気ショックを与える.被験者はインターホンで生徒役とコミュニケーションをとるが,隣には研究者が立っている.こうして研究者の合図で,実験は開始される.

生徒は最初のうちは正解するが,すぐに間違うようになり,被験者は電気ショックのスイッチを押す.電圧が上がり,生徒は痛いと言うが,研究者は続けるように促す.電気ショックのレベルが上がると,生徒役の苦痛の叫びは大きくなる.被験者が実験を断る旨を研究者に告げると,研究者は契約書で同意したではないか,電気ショックを与えることで生じた結果は研究者が責任を持つとも言う.その結果は,65%の被験者が最高レベルの450ボルトになるまで作業を続けたのである.大多数の被験者がやめさせてほしいと必死に懇願しながら,生徒役に対して電気ショックを与え続けたのだ.

[ジンバルドーのスタンフォード監獄実験]
大学の地下に模擬刑務所をつくり,1971年8月14日に刑務所生活の実験が始まった.応募者から選んだ9名の学生が囚人役,看守役には8時間交代制で3人ずつ3組を無作為に選んだ.実験は警察官が囚人役を逮捕して手錠をかけてパトロールカーで連行するところから始まる.目隠しをして,刑務所に連れて来られる.そこで,全裸にさせられて囚人服を支給される.足首に鍵付きの鎖をはめられてから,目隠しを外される.これが2週間を予定した監獄実験の始まりだった.しかし,6日目の金曜日に早くも中止となった.看守役がサディスティックに振る舞い,囚人役が次々とストレス障害となって脱落したからだ.

アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴したハンナ・アーレントは,彼のような人を例外とか倒錯したサディストと見るべきではないと述べている.アイヒマンはまったく正常で,自分の昇進に恐ろしく熱心だったこと以外に動機はなかったとアーレントは言う.アイヒマンは,自分は命令に従っただけだと抗弁した.ユダヤ人殲滅に係わった人々は普通の人々であり,権威の要求に抵抗し,道徳的規律を貫く力量のある個人こそがこの基準から外れた稀有な例外なのだ.

アブグレイブ刑務所の拷問と虐待は2004年の内部告発によって明らかになり,世間に知られるようになった.アブグレイブ刑務所での虐待は模擬刑務所と似ていた.虐待を行った看守はごく一部の腐った兵士に過ぎないと軍の副司令官は釈明したが,事実はそうではなかった.虐待を行った看守の心理テストの結果は正常で健康な範囲に収まっていた.内部告発者こそが稀有な存在だったのだ.しかし,告発したことによって,数年にわたって軍の保護拘束下に置かれることを余儀なくされた.その妻も母も含めて,多数の脅迫を受けていたためだ.独裁者が君臨する集団や国家では面従腹背で規律が保たれるが,民主主義社会では自分を見失わない稀有な存在が自由を行使する普通の人々から脅迫や迫害を受けることがあるのだ.

普通の人々の普通の行動は,状況によって変容する.優位に立てば傲慢になり,権威者には隷属するのだ.アイヒマン実験の被験者は権威に隷属して自分の意志を貫き通すことができなかったが,スタンフォード監獄実験やナチスでユダヤ人の大量殺害を実行した人々,アブグレイブ刑務所で虐待を行った人々はごく普通の人々であり,置かれた状況によって自分の意志が変容したのだった.逆に,ナチスの迫害からユダヤ人を救った人々やアブグレイブ刑務所での虐待を密告した人は,状況によって自分の意志が変容しなかった稀有な変わり者だったのだ.

自分の意志が変容するのは同調圧力だ.同調を拒否すれば集団内で孤立するから,孤立を避ける心理が働く.次善の策は何もしない傍観者となることだ.状況の力が服従者や同調者や傍観者を作り出したのだ.監獄実験やアブグレイブ刑務所での虐待が起こったのは同調者の存在だけではなく,傍観者にも責任がある.

刑務所に限らずどのような社会であっても,集団内の地位や役割のような状況の力に操られて普通の人々の心理や行動は,多かれ少なかれ影響を受けるようだ.実際,精神病棟の模擬実験や米国海兵隊で起こったことは監獄実験とほぼ同様であり,社会状況の力に対抗するには同調と服従の克服が必要なのだとジンバルドーは述べている.

文献
1) スタンレー・ミルグラム,服従の心理, 河出書房新社 (2012).
2) フィリップ・ジンバルドー,ルシファー・エフェクト ふつうの人が悪魔に変わるとき,海と月社 (2015).
3) ハンナ・アーレント,イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告,みすず書房 (1969).

(岡田 明)

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