大田区の理想郷的工場村とその盛衰
下丸子天祖神社は下丸子児童遊園のなかにある.その神社の裏手には下丸子耕地整理組合事業完成記念碑が建っていて,1926年10月17日の日付が記されている.説明文の上部には神話時代の銅像が置かれ,左右には整理事業施行前と完成後の銅板地図が嵌め込まれている.
大田区の工業の歴史は江戸時代の大森蒲田のお土産として有名だった麦わら細工に遡ることができる[1].明治時代には麦の茎を幅約1センチメートルの組紐に編み上げた真田紐の工業生産が始まった.麦わら帽子の材料となる麦稈工場が花形産業となった時代だったのだ.素材は麦わら真田から経木真田そして麻真田と変わり,1916年の大森は全国一の麻真田の産地となった.
1931年頃には真田業界は完全に姿を消したが,耕地整理が進んだ大正時代になると大田区に近代工業が現れ,蒲田の周囲が新興工業地帯となった.大田区の耕地整理組合は1916年から1934年まで44組合が成立し,将来の宅地化と工場用地を目指した区画整理事業が実施された[1].下丸子耕地整理組合もその1つだったのだ.
蒲田の新興工業地帯の特徴の1つはエベネザー・ハワード (Ebenezer Howard) が提唱した田園都市構想が具現化されたことだ.黒澤貞次郎のタイプライターの製造工場はユートピア「吾等が村」の建設でもあった[注1].その南隣の大倉陶園は四季の花に囲まれた工場であり,三省堂・蒲田印刷所と東洋オーチスエレベーターの近代工場はアメリカの田園都市の最新工場をモデルにしたもので,いずれも現在の蒲田駅から数百メートル南の場所に互いに近接して建設された[注2].そして,松竹蒲田撮影所もその近くにあった.春の匂いに溢れる花咲く蒲田の理想郷的工場村の建設である[1].大正デモクラシーの時代だったのだ.
金属加工や自動車製造の工場も理想郷的工場村の近辺に建設された[1].1917年頃に大森北2丁目から南大井6丁目にあった東京瓦斯電気工業では,1919年に軍用貨物自動車を生産した.日本特殊鋼の大森工場は1915年設立の製鋼工場だが,1933年に兵器工場が誕生して機関銃などの兵器や軽装甲車の本格的生産が始まった[注3].1921年竣工の新潟鐵工所の蒲田工場 (現在の蒲田本町1丁目) で自動車用ディーゼルエンジンが完成したのは1933年である.三菱重工・丸子工場 (東京機器製作所) は1937年2月に操業を開始した年産3000台のバス・トラックの量産工場であったが,1937年7月に盧溝橋事件が起こると軍の強い要望で自動車の生産は中止となり,戦車や装甲車などの生産に転換した.
1944年の軍需大臣指定工場事業所名簿には東京都内に695の軍需工場・事業所が書かれているが,そのなかの172 (東京都の24.7%) は大森・蒲田区のものだ[1].三菱重工・丸子工場では九七式戦車,日本特殊鋼では機関銃や装甲車などを製造していたのだが,1942年から19回の空襲を受けて軍需工場は壊滅した.戦争直後の工場では鍋,釜,弁当箱などの日用品を製造し,空き地では畑仕事が行われた[1].そして日本が深刻な経済恐慌に落ち込むかに見えた頃,朝鮮戦争が始まり,その特需発生によって大田区工業会は息を吹き返した.だが1960年代には公害問題が深刻化し,1967年には羽田中学校の全生徒の40パーセントに呼吸器疾患が報告された.さらに雪ケ谷小学校の児童の19.8%がカシン・ベック病にかかっていることがわかると,1970年に玉川浄水場からの上水取水の停止に至った.なお,その後の調査で多摩川の水と病気の関係は否定されている[注4].
大田区の大きな工場の多くが移転したのは1970年代以降であり,その後の大田区は機械・金属関係の小さな町工場と中小規模の企業が多いことを特徴とする工業区になった.工業従事者は1963年の183,012人が最高で,工場数は1973年の8,803社,300人以上の工場数は1959年における371社が最高である[1].耕地整理によって近代工業が大田区に誕生したのだが,軍需産業への傾斜と空襲による荒廃,公害の深刻化と大工場の移転によって,大田区は中小零細企業の町へと変貌した.
2021年の資料によれば,大田区の企業の約半数は従業者が3名以下で,8割弱が9名以下の中小零細企業である[2].業種別に見れば,金属製品と一般機械で過半数を超え,電子機械や輸送用機械を加えた機械・金属加工系の業種は8割を超える.切削・研磨等の加工技術を得意とする付加価値の高い試作品や治具等の多品種・少ロット生産に特化した工場が多いのも大田区内の工場の特徴だ[2].
黒澤貞次郎が建設したユートピア「吾等が村」,四季の花に囲まれた大倉陶園,そして「蒲田女学校」と呼ばれた三省堂・蒲田印刷所といった蒲田の理想郷的工場村の風景は長くは続かなかった.1918年頃から工場建設を始めた黒澤商店・蒲田工場は1953年に黒澤貞次郎が没すると莫大な相続税の支払いのために土地の多くは売却され,1919年創業の大倉陶園は1960年に戸塚に移転した.東洋のハリウッドを目指して1920年に建設された松竹蒲田撮影所は1936年に大船に移転し,1924年に操業を開始した三省堂・蒲田印刷所は1945年に焼失して消滅した.なお,1921年に建設された新潟鐵工所の蒲田工場は1976年に群馬県に移転して売却され,2001年に会社更生法を申請して倒産した.2001年には三菱重工・丸子工場 (1971年より三菱自動車・トラック事業部・東京自動車製作所) も閉鎖された.
耕地整理によって春の匂いに溢れる花咲く蒲田の理想郷的工場村が出現したのだが,その痕跡を仄めかすものはほとんど消え去ってしまった.松竹蒲田撮影所の跡地には大田区民ホール・アプリコなどが建っているのだが,蒲田松竹撮影所跡を示す木柱は雑居ビル (大田区蒲田5丁目20) の階段の脇にひっそりと鎮座している.新潟鐵工所のあったことを示す日本舶用ディーゼルエンジン機関發祥之地の石碑は蒲田本町一丁目公園の片隅に置かれている.三菱重工の丸子工場跡地の碑も多摩川沿いのマンション (キヤノン本社の隣) の敷地の片隅に置かれている.いずれもエベネザー・ハワードが提唱した「田園都市」や大正デモクラシーの時代に白樺派の武者小路実篤が提唱した「新しき村」を彷彿させるものからは縁遠いものである.
[注1] 黒澤貞次郎は1891年に16歳で渡米してニューヨークのエリオット社 (Elliott & Hatch Book Typewriter社) でタイプライターの製造技術を習得し,1901年に帰国して電信用和文タイプライター (カタカナ縦書き) の製造販売を開始した[1, 3, 4].1917年に黒澤商店が大阪中央電信局に納入した2台の縦書きカナタイプライターは和文モールス符号で使用可能なカナ48種,数字10種,濁点,半濁点,長音,句読点,カッコ4種,新章記号( )に加え,電報の清書に必要な漢字など合計84字を収めている[3, 5].キー数が42なのは,このカナタイプライターが L. C. Smith & Bros. Typewriter を改造したものだったからである.事業に成功した黒澤貞次郎は1913年に黒澤商店・蒲田工場用地の買収を始め,1918年頃から工場建設を始めた.タイプライターの製造工場に加え,113棟の社宅,子女の教育のための幼稚園 (黒澤幼稚園) と小学校 (私立黒澤尋常小学校) を開設したユートピア「吾等が村」の建設である[1, 4, 6].「企業は大きな家族である」との企業哲学のもとでの理想郷的工場村の建設には,白樺派の大正デモクラシーの影響が色濃くあったとされる[1].だが,1953年に黒澤貞次郎が没すると黒澤商店には莫大な相続税を課せられ,税金の支払いのため蒲田工場「吾等が村」は売却されて1957年に消滅した[4, 7].「納税は美徳なり」の哲学の下,黒澤貞次郎は節税のための法人化を許さなかったのだ[8].売却された吾等が村の跡地は現在,新蒲田公園,大田都税事務所,富士通などになっている.
[注2] 黒澤商店・蒲田工場は現在の新蒲田1丁目,1919年創業の大倉陶園は現在の西六郷1丁目 (現在,大田区立志茂田中学校,志茂田小学校のあるあたり),1924年に操業を始めた三省堂・蒲田印刷所と1933年に完成した東洋オーチスエレベーターの近代工場は現在の仲六郷1丁目 (現在はマンションだが,その一角に我国最初のエレベーター工場誕生の地の碑がある) にあった[1, 9].大倉陶園は77歳の大倉孫兵衛が自分の思い描く理想の陶磁器実現のために息子の和親とともに始めた事業だが,大倉和親がニューヨーク滞在中に黒澤貞次郎と知り合って親交を深めたことが,黒澤商店・蒲田工場の南隣に工場を設立するきっかけになった[9].大倉陶園の創立者は森村市左衛門らとともに日本陶器を設立した大倉孫兵衛で,そのオーナーは日本陶器の初代社長 (日本碍子,東洋陶器,伊奈製陶の初代社長も兼務) に就任した大倉和親だが,支配人は東京高等工業学校・附設工業教員養成所工業図案科を卒業して愛知県立陶器学校や神奈川県立工業学校で教えていた日野厚である.その大倉陶園の所有地に大倉和親の資本で1934年に各務クリスタル製作所を設立した各務鑛三は愛知県立陶器学校で日野厚に学び,東京高等工業学校・工業図案科選科に進み,窯業科嘱託を経てガラス工芸家となった[10].松竹蒲田撮影所は蒲田5丁目にあったのだが,大きな工場騒音を発する新潟鐵工所の蒲田工場が,撮影所と理想郷的工場街のほぼ中央に建設された.松竹蒲田撮影所が大船に移転したのは,1931年頃から本格的トーキーが制作されるようになると,工場騒音 (近くの新潟鐵工所の騒音が大きかった) がトーキー制作の邪魔になったからだ.
[注3] 東京大学採鉱冶金学科を卒業して古河鉱業に入社した渡辺三郎 (旧姓大河原三郎を結婚によって改姓して資金を得た) はドイツのアーヘン工科大学への留学から帰国した後の1915年に日本特殊鋼を設立し,大森工場での操業を始めた[11].第一次世界大戦の最中に陸海軍の工廠から受注した炭素工具鋼,高速度鋼,自動車用鋼などのルツボ製鋼による製造である.しかし,戦争が終結すると反動不況が始まり,1920年には経済恐慌となった.1923年には関東大震災,1929年にはウォール街での株式大暴落を契機に1930年には昭和恐慌に陥ったのだ.そのなかで修理工場から発展した製作工場が機械加工品の受注に進出して,1931年には弾丸薬莢製造用臼杵,魚形水雷の燃料タンク,小型戦車,火焔発射機などの軍需品を製作した.そして1933年に本格的な兵器工場の誕生となった.
[注4] カシン・ベック病 (Kashin-Beck disease) とは東部シベリアや中国東北部などにみられた風土病で骨や関節が変形し腫脹する慢性関節疾患である.一般に軽症であることが多いが,幼児では小人症となることもある.大田区内の小中学校生にカシン・ベック病罹患率が高く,その原因として飲料水中の有機物が疑わしいと千葉大学滝沢教授によって指摘されたが,多摩川からの飲料水とカンシン・ベック病との関係はその後の研究によって否定された.
文献
1.大田区郷土博物館編,工場まちの探検ガイド (1994).
2.公益財団法人大田区産業振興協会,大田区工業ガイド:https://www.pio-ota.jp/pr/guide/japanese.html
3.安岡孝一,キー配列の規格制定史日本編 : JISキー配列の制定に至るまで,システム/制御/情報,47 [12] 559-564 (2003).
4.黒澤オサム.クロサワ タイプライター/ 印刷電信機:https://sites.google.com/view/kurosawatypewriter/
5.安岡孝一,タイプライターに魅せられた男たち 第56回黒沢貞次郎(9):https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kurosawa09
6.近江栄,藤森照信編,近代日本の異色建築家,朝日新聞社 (1984).
7.安岡孝一,タイプライターに魅せられた男たち 第60回黒沢貞次郎(13):https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kurosawa13
8.岡茂光,「蒲田モダン」を築いた人々 その一 黒澤貞次郎と吾等が村:http://asakawaraban.jp/bunbunbun/040.php
9.砂川幸雄,大倉陶園創成ものがたり,晶文社 (2005).
10.砂川幸雄,製陶王国をきずいた父と子,晶文社 (2000).
11.野口幹世,存亡,にじゅういち出版 (2003).