豊橋さんぽ(No.8 戦争遺跡)

 今年は本当に猛暑が長期間続きますね。例年、埼玉県熊谷市、群馬県桐生市、栃木県佐野市などの北関東や京都、大阪といった関西が暑いところとして知られていますが、今年は東海地方が当たり年のようです。既に静岡市や三重県の桑名市で40℃オーバーの気温が記録されていますし、名古屋市や岐阜市などでは連日35℃オーバーの猛暑日が続いています。幸い、豊橋市は名古屋市よりも2~3℃ほど気温が低く、せいぜい36℃どまりですが、湿度が高いので体に堪えます。8月は太平洋戦争の際末期に広島及び長崎への原爆投下があり、15日に無条件降伏して終戦となった時期にあたりますが、終戦からもう80年近くの年月が過ぎたことになります。豊橋市には数々の戦争遺跡なるものが残されていますので、今回はそのことに触れてみることにします。

 豊橋に造られた最も規模の大きな軍事的施設は、日露戦争中に大陸で編成された第15師団に関連した施設です。この師団は第一次大戦後の軍縮により大正の末に廃止されましたが、昭和になるとその施設跡地を利用して下士官候補者を教育するための豊橋陸軍教導学校と甲種幹部候補生を教育するための豊橋予備士官学校が開設されました。所在地は市街地の南にある高師原(この辺りは酸化鉄の多い土壌から構成されており、酸化鉄が固まった“高師小僧”と呼称されている珍しい鉱物が産出することでマニアには良く知られている)で広さは約50万坪です。現在は愛知大学の豊橋キャンパスになっている所がその中心ですが、私の母校である愛知県立時習館高校や豊橋工科高校(マツケンサンバで有名な松平健の母校)なども関連する施設の跡地になります。私が多分中学生のころだだったと思いますが、時習館高校の通用門に残されていた哨舎(歩哨の居場所)などを使って映画の撮影があり、それを見に行ったことを記憶しています。また、愛知大学の豊橋キャンパスには第15師団の司令部庁舎(現在は愛知大学記念館)が残されているため、浅丘ルリ子主演の「早咲きの花(2006年上映)」や作曲家古関裕而の人生をドラマ化した「エール(2020年上半期放映)」などのロケが行われています。さらに、私が子供の頃には、家からほど近い向山台地に第15師団の工兵第15大隊のトーチカが残されていて、その周辺で友達と無邪気に戦争ごっこをして遊んだ記憶もあります。なお、このトーチカは、戦争遺跡として現存保存されているとのことです。

 この他、私が毎日のように散歩コースに利用している豊橋公園には、明治時代に陸軍の歩兵第18連隊が置かれていました。現在でも連隊の正門、哨舎の他、戦後に建立された記念碑などがその面影を残しています。また、太平洋戦争時に使用されていた豊橋海軍航空基地(その跡地は現在、三河港の港湾関係の事業所などに活用されている)や老津陸軍飛行場(その跡地は農地などに利用されている)などもありました。さらに市域の南部に広がる高師原や天伯原は陸軍の演習地として使用されていましたが、戦後は豊川用水が渥美半島の先端部分まで整備されたことにより、現在は大部分が農地となり野菜などの一大産地になっています。また、豊橋技術科学大学のキャンパスは天伯原の一角に設けられていますが、市街地からはかなり離れているためアクセスはあまり良くありません。逆に言えば、東工大ほどすべてのキャンパスが駅に近い大学は珍しいとも言えますね。(10月から東京科学大学になりますが、状況は変わらないようです。)これも戦争遺跡と言えるでしょうか、明治時代時代以降の戦争で命を落とした軍人を祀った”陸軍墓地”なるものが市街地の東部、東田町にあります。こちらに戻って来て初めてこのようなところがあるのを知り、一度訪ねてみました。あまり広くはありませんが、静寂な空間になっていました。

市内の東田町にある陸軍墓地(日露戦争から太平洋戦争に至る戦争で亡くなった軍人を祀っている)

 豊橋市は太平洋に面していますが、渥美半島は隆起地形であるため、豊橋市と田原市の海岸線は数十kmにわたって20~30mの崖が続いています。(その一部には海岸の砂が風で吹き寄せられて急傾斜の斜面となっているところがあり、”サンドスキー場”として使われていましたが、伊勢湾台風によりその砂が消失してしまいました。残念!)太平洋戦争の末期には本土決戦に備えて、この海岸線の各所にトーチカ、砲台や塹壕などが設けられていたようです。これらの施設が使用されなかったのは不幸中の幸いと言えます。以上、市内には様々な時代の戦争遺跡が残されており、軍都豊橋の昔を思い出させます。             (岡田清)

 

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