科学的理解を阻むもの

光の直進性,反射の法則,屈折の法則といった幾何光学の法則は古くから知られていた[1, 2].発見者は不明だが,古代ギリシアのユークリッドや古代ローマのプトレマイオスの著書にもこれらの法則は言及されている.幾何光学の法則は日常生活の経験と合致する自明の真理として受け入れ可能だから理解に困難はない[注1].

フェルマーの原理は光が通過する経路は所要時間が最短の経路だというものだ.この原理から幾何光学の諸法則を導出できることは大きな便益だが,この原理の成立する理由を理解することは必ずしも容易ではない.フェルマーが本の余白に書き込んだ命題を理解することは極めて困難だが,フェルマーの原理はフェルマーの最終定理に比べればはるかに理解しやすいものの幾何光学の法則に比べれば理解が容易でないのは,日常生活の経験を直接反映したものではないからだ.

静力学(Statics)は静止する物体の力学,動力学(Dynamics)は運動する物体の力学だ.物体が静止する必要条件は力とモーメントのそれぞれが釣り合いを保つことだ.質点に加わる力の総和および剛体に加えられるモーメントの総和をゼロとする静止の条件が満たされなければ,物体は加速度運動を始める.力の釣り合いが欠ければ並進運動,モーメントの釣り合いが欠ければ回転運動を始めるのだ.その運動を記述するのが運動方程式だ.質点の運動方程式は力 $F$ によって運動量 $p$ ($= mv$)が変化するのだが,質量 $m$ が大きければ同じ力を与えたときの時間 $t$ 当たりの速度 $v$ の変化(加速度:$\mathrm{ d }v/\mathrm{ d }t $)は緩慢になる.なお,運動中に質量変化が起こる場合(ロケットや飛行機の運動では燃料消費によって質量変化が起こる)を含めて考えれば,力によって速度変化が起こるとするより,運動量が変化すると見なした方が合理的だろう.

$$F = m\frac{ \mathrm{ d } v }{ \mathrm{ d } t } = \frac{ \mathrm{ d } p }{ \mathrm{ d } t } $$

剛体にモーメント(トルク)が加わったときの回転速度の変化も同様に表され,慣性モーメントが大きければ同じトルクを与えたときの回転速度の変化は緩慢になる[注2].

科学理論の精緻化によって運動方程式の表現は改変されたが,分かり易くなるように改良されたのかははなはだ疑問だ.質点の運動では,$\dot{p}$ ($= \mathrm{ d }p/\mathrm{ d }t $) を見かけの力(慣性力)と扱って力の釣り合いと見なせば,$F -\ \dot{p} = 0$ となり,これは静力学における力の釣り合いと同じ形式になる.このような表現形式を特徴とするダランベールの原理によって動力学は静力学に還元された.そして運動方程式をエネルギーで表現した形式の1つがオイラー・ラグランジュ方程式である[注3].オイラー・ラグランジュ方程式の変数は一般化座標 $q$ と一般化速度 $\dot{q}$ であるが,これを一般化座標 $q$ と一般化運動量 $p$ に変更するとエネルギー保存則に関係づけられたハミルトン形式になる[注4].ポテンシャルエネルギーは座標の関数だが,運動エネルギーは速度あるいは運動量の関数として表現できるから2つの形式が成立するのだ.

運動方程式をダランベールの原理やオイラー・ラグランジュ方程式やハミルトン形式で表現する計算上の利便性はあるのだが,分かり易さの改善でないことだけは確かだ.科学理論の精緻化は分かり易さを犠牲にして築かれている.精緻化が進んだ分だけ日常的な経験からの逸脱が大きくなるのは,ユークリッド幾何学のような自明の公理を出発点とするのではなく,理解が容易でない概念を原理として受け入れることが出発点となるからだ.

天動説は日常生活の経験と完全に合致するが,精密な天体観察データを説明するには,日常的な経験からは想像困難な地動説を受けいれた方が合理的だ.大陸移動説や進化論も日常的な経験からはかけ離れた概念だが,生息する生物種や化石となった生物種の地理的分布を説明するには合理的な概念だ.自然界を構成する要素を詳しく調べれば,日常的な経験を超えた新たな知識が集積される.不可思議とも思われる非日常的な知見を新たな知識として受け入れることを繰り返すごとに,日常生活を超えた新たな世界に足を踏み込むのだ.それによって自然界を構成する要素への理解は深まるのだが,そこには日常的な経験からは得られない知識が含まれている.その新たな非日常的知識を含む自然界を構成する要素がしたがう法則を探究すれば,日常的な経験に馴染んだ人々にとっては理解が容易でない概念を原理として設定する必要性が生まれることになる.

科学的理解を阻むものは科学理論の行き過ぎた精緻化であることは間違いなさそうだが,現代生活において科学的知識が不可欠なことも確かだ.科学理論を理解せずに,科学的な知識を有すると称する輩が民主主義を牽引するならば,衆愚政治への道が拓ける.しかし,選択と集中によって特定の狭い領域に極めて高い知識と能力を築き上げたならば,それ以外の分野における無知と低能力を完璧に兼ね備えた専門家の誕生だ.あらゆる知識を統合して適切な判断を下す必要性を満たすことができるのは誰だろうか.人間には無理だが人工知能では可能ではないかとの推察は,王様を欲しがる蛙の運命を暗示する.

[注1] 光の直進性や屈折現象が古くからよく知られていたことは,古代ギリシアのユークリッドやプラトンの著書からでも明らかだ[1].その後,アレキサンドリアのプトレマイオスは屈折角を測定し,バクダッドのイブン・サール(Ibn Sahl)は984年に屈折についての最初の正確な図解を示し,アルハーゼン(Alhazen,本名はイブン・ハイサム)は入射角と反射角を測定して反射の法則を導いた.1621年にヴィレブロルト・スネル(Willebrord Snel)は2つの媒質の境界を横切るときの光線の方向変化を観察し,ルネ・デカルト(René Descartes)は1637年に正弦関数で屈折の法則を記述した.ホイヘンス(Christiaan Huygens)が「光についての論考(1690)」に書いたように,光の直進性,反射の法則(鏡面反射において入射角と反射角は等しいこと),屈折の法則(屈折現象では光の入射角と屈折角に一定の関係がある)といった幾何光学は17世紀には既によく知られていた[2].そしてフェルマーの原理(この原理は15世紀以上前にユークリッドが唱えたものと同じものだが,モーペルテュイ,オイラー,ラグランジュ,ハミルトン,ファインマンらに引き継がれ,最小作用の原理,仮想仕事の原理,変分法,経路積分などへと発展を遂げた)は1657年,ホイヘンスの原理は1678年に発見された.

[注2] 剛体に力が加えられたときには,モーメント(あるいはトルク) $N$ の大きさに比例して,回転速度(角速度 $\omega$ あるいは角運動量 $L = I\omega$ )の上昇が起こる.

$$N = I \frac{ \mathrm{ d } \omega }{ \mathrm{ d } t }= \frac{ \mathrm{ d } L }{ \mathrm{ d } t }$$

ここで,$I$ は慣性モーメントである.なお,物体に働く力の総和(全合力)がゼロ($ F = 0 $) ならば $\dot {p} = 0$ ($\mathrm{ d } p/\mathrm{ d } t = 0$) なので,運動量 $p$ は時間に依存しない(運動量保存則).同様に,物体に対する全トルクがゼロ($ N = 0$) ならば $\dot {L} = 0$ ($\mathrm{ d } L/\mathrm{ d } t = 0$) なので,角運動量 $L$ は時間に依存しない(角運動量保存則).そして剛体では幾何学的形状と回転軸に依存する慣性モーメント $I$ が定義される.

[注3] 運動方程式をエネルギーで表すことは可能だ.ニュートンの運動方程式では物体の位置と速度の記述が座標系に依存するから極座標系で表現したときの方程式は複雑になるのだが,エネルギーはスカラー量なので座標系の選び方に独立な方程式の表現が期待されるのだ.オイラー・ラグランジュ方程式はエネルギーで記述した運動方程式を一般化座標( $q$ : 時間 $t$ の関数)と一般化速度( $\dot{q} = \mathrm{ d }q /\mathrm{ d }t$ : 時間 $t$ の関数)の関数で表現したものだ.厳密な導出は専門書に譲るが[3a3b, 3c, 3d],問題を単純化して,バネの単振動や自由落下のような1次元運動(一般化座標 $q$ は運動方向のみを考慮すればよい)を考えてみよう.運動エネルギー $K$ ($\dot{q}$ )は速度の関数($K = \frac{m}{2} \dot{q}^{2} $ )だから,運動エネルギーを速度で微分し($\mathrm{ d }K/\mathrm{ d } \dot{q} = m \dot{q}$ ),それをさらに時間で微分すれば,$m\ \mathrm{ d } \dot{q}/\mathrm{ d }t $ になる.他方,ポテンシャルエネルギー $U$ を座標 $q$ で微分すれば力(-$F$ )が得られる($\mathrm{ d }U/\mathrm{ d }q = -F$ ).したがって,運動方程式 $m\ \mathrm{ d }\dot{q}/\mathrm{ d }t - F = 0$ は

$$\frac{\mathrm{ d }}{\mathrm{ d } t}\left( \frac{ \mathrm{ d } K }{ \mathrm{ d } \dot{q} } \right)+ \frac{ \mathrm{ d } U }{ \mathrm{ d } q } = 0$$

と書き換えられ,ラグランジアン $\mathcal {L}(q, \dot{q}, t)$ を$\mathcal {L} = K -\ U$ と定義すれば(この $\mathcal {L}$ は角運動量 $L$ ではない!),以下のオイラー・ラグランジュ方程式を得る.

$$\frac{\mathrm{ d }}{\mathrm{ d } t} \left( \frac{\partial \mathcal {L}}{\partial\dot{q}} \right) - \frac{\partial \mathcal {L}}{\partial q}= 0$$

実は,オイラー・ラグランジュ方程式は座標系の表現によらない一般化された表現を目指して構築されたものなので,直交座標のみならず,極座標や円筒座標系などでも成立する特徴がある.ニュートンの運動方程式の解は,オイラー・ラグランジュ方程式を解いて得られる $q(t )$ だ.

[注4] ハミルトンの正準方程式は運動方程式を一般化座標( $q$ : 時間 $t$ の関数)と一般化運動量( $p$ : 時間 $t$ の関数)の関数で表現したものだ.厳密な導出は専門書に譲るが[3a, 3b, 3c, 3d],問題を単純化して,バネの単振動や自由落下のような1次元の運動を考えてみよう.運動エネルギー $K(p, t)$ とポテンシャルエネルギー $U(q, t)$ を用いて,ハミルトニアン $\mathcal {H}(q, p, t)$ を$\mathcal {H} = K + U$ と定義(この定義は厳密さに欠ける)すれば,$K$ は運動量 $p$ の関数($K = p^2/2m$)だから,${\partial \mathcal {H} }/{ \partial p } = p/m $ が得られ,$p = m\ \mathrm{ d }q/\mathrm{ d }t = m \dot{q}$ を考慮すれば,運動エネルギーと運動量の関係は

$$ \dot{q} = \frac{ \partial \mathcal {H} }{ \partial p }$$

と表現される.また,ポテンシャルエネルギー $U$ は座標 $q$ の関数だから,${\partial \mathcal {H} }/{ \partial q } = \mathrm{ d }U/\mathrm{ d }q$ である.然るにポテンシャルエネルギーと力 $F$ には $\mathrm{ d }U/\mathrm{ d }q = -F$ の関係があるので,運動方程式:$\dot{p} = F$ の表現は,

$$\dot{p} = - \frac{ \partial \mathcal {H} }{ \partial q }$$

となる.この2式がハミルトンの正準方程式だ.実は,ハミルトンの正準方程式はオイラー・ラグランジュ方程式と同じく一般化された表現だから,直交座標のみならず,極座標や円筒座標系などでも成立する特徴がある.ニュートンの運動方程式を書き直したオイラー・ラグランジュ方程式に対し,ハミルトンの正準方程式は2つの式となるがその表現の対称性は高い.

文献
1.ヘクト(Eugene Hecht),光学 I (基礎と幾何光学),丸善出版 (2018).  
2.原亨吉編,ホイヘンス 光についての論考 他 (科学の名著),朝日出版社 (1989).
3.例えば,(a) 前野昌弘,よくわかる解析力学,東京図書 (2013).  
 (b) ジョン・テイラー,古典力学,プレアデス出版 (2009).
 (c) エリ・デ・ランダウ,イェ・エム・リフリッツ,力学 (増訂第3版),東京図書 (1974).
 (d) 高橋康,量子力学を学ぶための解析力学入門,講談社サイエンティフィック (1978).

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