磁気モーメントをスピンと呼ぶのは如何なものか

荷電粒子は電場内ではクーロン力を受け,磁場内ではローレンツ力を受けて運動する.例えば,負電荷をもっている電子は電場内では正極に引き付けられるように運動し,磁場内では磁場と運動方向に対して垂直な方向に力を受けて運動方向が変化する.そして磁気モーメントを有する粒子が磁場内で運動するとき,その運動方向は磁極に近づくように変化する.

J・J・トムソン(Joseph John Thomson)が電子を発見した1897年の実験では,陰極線の通り道に電極と電磁石を配置した.そして,電場を印加すると陰極線は正極方向に曲がり,磁場を印加すると磁場方向と垂直方向に陰極線は曲がったのだ.これから陰極線の正体は負電荷の粒子であることが分かった.アルファ線が正電荷を帯びた粒子(ヘリウムの原子核)であることが分かったのも,ラザフォード(Ernest Rutherford)が1903年に行った同様な実験による.

ゼーマン効果は原子を磁場中においた場合には電子遷移による発光スペクトルが複数のスペクトル線に分裂する現象である.シュレーディンガーの波動方程式から予測されることは,例えばナトリウムのD線の発光スペクトルは3p (n = 3,ℓ = 1,m = -1,0,1)と3s (n = 3,ℓ = 0,m = 0)間の遷移なので3本のスペクトル線が観測されるはずだが,測定ではそれ以上の線が観測される(異常ゼーマン効果).そこでシュレーディンガーの波動方程式からは得られない電子の磁気モーメントに係わる第4の量子数が導入された.

1922年に行われたシュテルン・ゲルラッハの実験では銀原子ビームを磁場中に通過させるとビームは2つに分かれた[1].銀原子の磁気モーメントの方向と大きさがさまざまならば,ビームはビーム軸を中心に広がるとの古典的な予想に反した結果だ.この結果は銀原子の磁気モーメントの大きさは等しく,向きは磁場方向とその反方向の2つしかないことを示す量子効果によるものだ[注1].

銀原子の磁気モーメントが2つの状態を取ったことについて,磁気量子数からの類推で 2s + 1個の状態を取るとして計算すれば,s = 1/2が導かれる(2s + 1 = 2個であるから,s = 1/2 となる).そして,磁場方向成分を表わすスピン磁気量子数については,半整数値の2つの値,ms = ±1/2を持つことになる.このように原子のなかの電子状態は,主量子数(Principal Quantum Number) n,方位量子数(Azimuthal Quantum Number) ℓ,磁気量子数(Magnetic Quantum Number) mにスピン磁気量子数(Spin Magnetic Quantum Number) ms を加えた4つの量子数によって記述される.

電子の磁気モーメントの説明にはボーアの原子模型が用いられる.電子が原子核の周囲を回転運動(公転)すると古典的にはビオ・サバールの法則によって磁界が発生する.ボーア磁子は電子の軌道角運動量による磁気モーメントだが,電子は公転運動によって磁気モーメントを生み出すだけでなく,電子自体も磁気モーメントを持っている.そして電子の磁気モーメントの測定値はなぜかボーア磁子と同じとなる.電子の磁気モーメントを電子スピン,をスピン量子数(Spin Quantum Number)と称するのは,電荷を帯びた粒子の自転(スピン)によって磁気モーメントが発生するとの発想に由来するからだが,その発想には電子の自転速度を計算すると自転速度が光速を超えてしまうという不都合が伴う[注2].

電子の軌道角運動量の磁場方向の成分は整数値の磁気量子数m にディラック定数ℏ (ℏ= h/2π)を乗じたもので,電子のスピン角運動量の磁場方向の成分も半整数値のスピン磁気量子数msにディラック定数を乗じたものだ.そして,磁気モーメントが軌道角運動量のみによるならば,整数値の磁気量子数にボーア磁子を乗じた値の1倍(電子軌道のg因子)が磁気モーメントとなるが,磁気モーメントがスピン角運動量のみによるときには,半整数値のスピン磁気量子数にボーア磁子を乗じた値の約2倍(電子スピンのg因子)が磁気モーメントとなる[注3].いずれにしても電子による磁気モーメントは,奇妙なことに電子の公転から計算されるボーア磁子に近い値となる.

1933年にシュテルン(Otto Stern)は水素分子を磁場中に通過させる実験を行い,水素分子(陽子対)のビームが3つに分裂した結果から,水素分子が磁気モーメントを持っていることを明らかにした[1].水素分子の電子による寄与は相殺されるから,陽子が磁気モーメントを持っていることになるのだ[注4].

陽子の磁気モーメントも電子スピンに倣って計算される.電子スピンによる磁気モーメントがボーア磁子で与えられたのだから,核スピンによる磁気モーメントは核磁子によって与えられるとの考えだ.そしてボーア磁子は電子の軌道角運動量による磁気モーメントで,電子の質量が関係するのだが,陽子の磁気モーメント(核磁子)はボーア磁子における電子の質量を陽子の質量に置き換えたものであろうと推察された.質量が大きく異なるから,核磁子の値は小さくなり,ボーア磁子の約1/1840に過ぎないのだが,測定された陽子の磁気モーメントは核磁子の2.79倍,重水素核は0.86倍,そして電荷を帯びてないから磁気を持たないはずのない中性子の磁気モーメントは核磁子の-1.91倍(負の磁気モーメント)と測定された[2, 3a, 3b].いずれにしても核子による磁気モーメントは,奇妙なことに核子の公転によるとして計算される核磁子に近い値となる.

核子(陽子や中性子)の磁気モーメントの大きさは等しく,その向きは磁場方向とその反方向の2つのみだからスピン量子数は1/2となり,g因子は陽子が5.59で中性子は-3.83と計算された.桁数は一致しているものの,予想を超えた大きな値(異常磁気モーメント)は陽子や中性子が素粒子でないからだ.核子を構成するクォークの磁気モーメントを反映したとの解釈である.

陽子は3つのクォークとそれを繋ぐグルーオンから構成されているのだが,クォークのスピンは電子などのレプトンと同じ1/2で,4種類のゲージ粒子(光子,グルーオン,2種のウィークボゾンであるWボソンとZボソン)はいずれもスピン量子数が1,ヒッグス粒子はスピン量子数がゼロであるが,これらの素粒子の磁気モーメントの測定値は知られていない.

磁気モーメントは測定可能で,その測定値からビオ・サバールの法則を用いて荷電粒子の軌道角運動量に変換することも可能だ.電子スピンならば,その磁気モーメントはボーア磁子にほぼ等しく,核スピンならば核磁子の数倍程度の値になる.電子あるいは核の磁気モーメントは,単位磁子(ボーア磁子または核磁子)にスピン量子数とg因子を乗じた値だが,実際にはこの関係式からg因子を算出する.スピン量子数はシュレーディンガー方程式の解における方位量子数と磁気量子数の関係式からの類推によって得られたものだから,単位磁子の値を決めれば,g因子は磁気モーメントの測定値から算出される.

磁気モーメントを有する粒子が磁場中を運動すると磁極に引き寄せられ,その磁気モーメントは電荷の回転運動に由来するというのが古典的な描像だ.しかし,電子の磁気モーメントを発生させる電荷の回転速度を計算すると光速を上回る結果が得られるので,電子スピンも核スピンも自転のイメージは誤りとされている.確認されたことは磁気を帯びた粒子の存在であり,粒子の自転ではない.

粒子の磁気モーメントをスピンと呼ぶのは如何なものだろうか.地磁気の磁気モーメントの発生原因は金属核の回転による電流がビオ・サバールの法則によって磁場を誘起するとの説が有力視されているが,地球スピンと呼ばれることはない.スピンの名称が定着したのは,今となっては確認する術はないが,エーレンフェスト(Paul Ehrenfest)の深慮が功を奏したのかもしれない.

[注1] 銀の電子配置は1s2,2s2,2p6,3s2,3p6,3d10,4s2,4p6,4d10,5s1である.47個の電子のうち内側の殻に入っている46個の電子の軌道磁気モーメントをすべて足し合わせると互いに相殺してゼロになる.そして残りの5s1の電子(47番目の電子)はs軌道に収容されているので,その軌道磁気モーメントもゼロである.したがって,観測された磁気モーメントは47番目の電子自体に起因すると推定される.これが第4の量子数による磁気モーメントである.

[注2] 1925年にウーレンベック(George Eugene Uhlenbeck)とカウシュミット(Samuel Goudsmit)はシュテルン・ゲルラッハの実験を説明するために,電子が自転(スピン)しながら原子核のまわりを回っているモデルを提案した[1, 2].これが電子スピンの名称の始まりだが,その定量的な説明を行ったのはルウェリン・トーマス(Llewellyn Thomas)で,その説明によってハイゼンベルク(Werner Karl Heisenberg)が勇敢な論文と称した自転モデルは市民権を得た.なお,最初に電子スピンを思いついたのはクローニッヒ(Ralph Kronig)だが,指導教官のランデ(Alfred Landé)がパウリ(Wolfgang Ernst Pauli)の意見を聞くことを示唆し,電子表面の速度が光速の10倍になることが分かって断念した.ウーレンベックらも電子の表面での速さが光速の200倍を超えることに気づいて論文を取り下げようとしたが,間に合わなかった.それに対し,指導教官のエーレンフェストは「とっくに論文は投稿してしまったよ.君たちは若いんだから愚かなことをしてもいいんだ」と答えたとされる[2].なお,二人が論文をエーレンフェストに渡したときにもパウリに相談せよとは言わず,「その考えは間違っているかもしれないが,きみたち二人にはまだなんの名声もない若者だから,馬鹿な間違いをしても失うものは何もないよ」と言って論文は編集者に送られたのだった.しかし,現在ではスピンのイメージは自転ではなく,パウリが考えたような新しい自由度(第4の量子数)だと考えられている.

[注3] 軌道角運動量とスピン角運動量の双方によって磁気モーメントが発生する場合は,双方の寄与の度合によって1~2の値になるランデのg因子と全角運動量(軌道角運動量とスピン角運動量の和)から磁気モーメントが計算される.同様な発想から,陽子の磁気モーメントは陽子のスピン磁気量子数(1/2)に核磁子を乗じた値の約5.59倍(陽子のg因子),中性子の磁気モーメントは中性子のスピン磁気量子数(1/2)に核磁子を乗じた値の約-3.82倍(中性子のg因子) が磁気モーメントとなる,

[注4] 水素分子の2つの電子は互いにスピンが逆なので電子の磁気モーメントによる影響は相殺される.電子による磁気モーメントでなければ,陽子が磁気モーメント(角運動量)を持っていると結論される.そして陽子の磁場方向の角運動量を±1/2ℏとすれば,2個の陽子からなる水素分子(陽子対)の磁場方向の角運動量はそれらを加算した0と±1ℏの3通りとなる[1].

文献
1.村上洋一,スピンとは何か,講談社 (2022).          
2.朝永振一郎,スピンはめぐる,みすず書房 (2008).  
3.例えば,(a) B・ポッフ,K・リーツ,C・ショルツ,F・サッチャ,素粒子・原子核物理入門,シュプリンガー・ジャパン (1999).
 (b) 山崎敏光,原子核の磁気モーメント,日本物理学会誌,26 [9] 637-652 (1971).

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