豊橋さんぽ(No.25 城の石垣修理)
2026年、最初の”豊橋さんぽ”になります。昨年の気象庁による3か月予報では年明けの1月、2月頃は気温が平年よりも高めという話でしたが、どうしてどうして今月だけで三度も寒波襲来になりそうな情勢です。豊橋は比較的温和な土地柄ですが、今冬は特に最低気温が例年よりも低い感じです。毎日の散歩では吉田城址のある豊橋公園を訪れることが多いのですが、豊川の遊歩道からは南アルプスの雪山が見え、また、川面にはカワウ、カイツブリやカモなどの水鳥が泳ぎ回っています。公園内の吉田城址は、私がほぼほぼ60年ぶりの里帰りの前から6年ほどかけて石垣修理が進められていましたが、昨年内にすべて完了しましたので、今回はこの件について触れることにします。
この吉田城址は北に豊川とその支流の朝倉川を天然の要害とした平城です。最初にこの地に城を築いたのは牧野古白で、西暦1500頃とされており、今橋城と言われていたようです。(このため、付近一帯の町名は今橋町)平城であったためか、守りに弱く、駿河の大大名今川家の家臣により滅ぼされ、それ以降、駿河の今川と三河の徳川との間で取ったり、取られたりを繰り返した後、徳川家の支配下になりました。本豊臣秀吉の天下となり、徳川家康が関東転封された後に、1590年に池田照政が城主となり、城の縄張りを大幅に改良し、今に至っています。徳川時代には松平家が主に城主となり、親藩であったことから代々幕閣のかなり重要なポジションを勤めました。そのため、徳川将軍などが京に上京する際には吉田城の本丸度店を宿泊場所にすることもあったとのことです。

吉田城は本丸を中心に南側に扇状に二の丸、三ノ丸が取り囲んだ形で、三重、四重に堀が囲んだ構造になっています。本丸は四方を石垣で築かれていますが、二の丸や三の丸の防御は石垣ではなく、土塁になっています。このため石垣修理は本丸のあちこちで行われていました。本丸は少しゆがんだ長方形で、その四隅に櫓が設けられ、本丸の中心には御殿があったとのことです。現在は北西の隅に鉄櫓がふくげんざれていて、あとの三隅には櫓は残っていません。本丸への出入り口は三ヶ所、南に面した”南多門”、北に面した”北多門”と東に面した"裏多門”で、それぞれの石垣が修理対象となりました。また、復元した鉄櫓の下の石垣は場内で最も古く、池田照政時代のものと考えられていますが、今回はこちらも一部修理されたようです。以下に示す写真に写った石垣の中で周りの石よりも白く見えるのが今回の修理で新たに入れ替えられた石になります。可能な限り昔の石を使って修復したことが見て取れます。修復を必要とした理由としては主に経年劣化になるのですが、特に樹木の根による石垣への影響が関係しているようでした。最後に修理された本丸の東北側の腰石垣では特にその影響が大きかったようです。最近は石垣マニアなる人たちが一定数いるようで、この部分の修復が終わった時点で今回の修理に関する説明会が現場で開かれ、2,3十人の参加者が熱心に説明を聞いているところを見かけました。多分、一番の関心事は使われた石はどちらからどのように運ばれたのかということかと思いますが、意外と遠方から運ばれたのではないかとのことです。石の種類としてはチャート質の石が多いとのことで、これも豊川が地質的に日本を2つに分ける大構造線に沿っていることに関係してるように思いました。
(岡田清)







