新政府の法制度設計とその顛末

日本の開国は砲艦外交によるものだったから,当面の課題は海軍を中心とする軍事力の強化だ.そこで幕府は1855年に長崎海軍伝習所を設置し,オランダ海軍を教官として蒸気船の操作法を学び,そこで学んだ生徒は1857年に築地に設置した軍艦操練所の教官となった.次のステップは蒸気船の製造技術の習得だ.1865年に始まったのは蒸気船の建造などを担う横須賀製鉄所の建設である.

明治時代になっても幕府の政策は継承された.横須賀製鉄所の建設は継続され,築地の軍艦操練所は廃止されたが,1869年に海軍操練所 (1870年に海軍兵学寮,1876年に海軍兵学校と改称) を新たに築地に設置し,1873年にイギリスからダグラス准艦長 (Archibald Lucius Douglas) を団長とする教官団が来日して本格的な教育が開始されたのだ[1a, 1b, 1c].

陸軍についても幕府の方策を踏襲した.1867年に来日したフランス軍事顧問団のメンバーのほとんどは1868年に帰国してしまったので,新政府は第二次フランス軍事顧問団を招聘した[2, 3].1869年に設置した大阪兵学寮での陸軍士官教育をフランス式で行うためだ.そして,1870年に新政府は海軍をイギリス式,陸軍をフランス式と定めた[注1].

第二次フランス軍事顧問団が横浜に到着した1872年は,フランス軍が普仏戦争でドイツ軍に敗北し,その講和条約 (ベルサイユ条約) を締結した1871年の翌年である.顧問団が横浜に着いたのは,その前年に兵学寮が大阪から東京 (和田倉門まえ) に移転していたからだ.1872年には徴兵令が発せられ,1873年になると兵学寮内に仮士官学校が設けられ,士官・下士官を教育・訓練する戸山学校も設置された.そして1874年に正式な陸軍士官学校が開設されると,顧問団の主力は市ヶ谷の士官学校と小石川水戸藩邸跡に建設され1871年に操業を開始した造兵司 (1875年に砲兵本廠,1879年に砲兵工廠と改称された軍需工場) での教育に携わることになる.

1870年の普仏戦争でドイツがフランスに勝利するとドイツ式の軍制が注目され,陸軍ではフランス式からドイツ式への軍制転換が始まった.ドイツ式への軍制改革にまず取り組んだのは桂太郎をはじめとするドイツ留学経験者であったが,ドイツ式軍制への傾斜が進んだのは1880年に第二次フランス軍事顧問団が帰国し,1885年にドイツからメッケル少佐 (Klemens Wilhelm Jacob Meckel) が来日して陸軍大学校での講義を始めた頃である.

新政府軍の達成目標は明確であったが,討幕を達成した後の国家建設のロードマップは明確ではなかった.建築計画を作らずに,とりあえず幕府の取り壊しに着手したのである.その新政府が掲げた新たな目標は関税自主権がなく治外法権を認めた不平等条約の改正だ.19世紀の西洋の国際法では,文明国が未開国を植民地支配し,野蛮国に対して不平等条約を締結することは正当と考えられていた.そこで新政府は不平等条約の改正という目的を達成する手段として,日本を野蛮国から文明国に仕立て上げる必要があると考えた[注2].

文明国は近代的な法治国家でなければならないとの発想のもとで,まず取り組んだものはフランス六法典の翻訳である.六法典とはナポレオン五法典 (刑法,民法,商法,刑事訴訟法,民事訴訟法) に憲法 (翻訳したフランス憲法は第二帝政の1852年憲法である.なお,1870年に第二帝政は崩壊して第三共和政が始まり,1875年に第三共和政憲法が制定された) を加えたもので,箕作麟祥が1869年から翻訳に取り組み,1874年までに仏蘭西法律書として順次刊行された[3, 4].

法整備に先立ち,新政府は1871年に裁判所を統括する司法省を設置した.そして内部部局として裁判所,検事局,明法寮 (1875年に司法省法学校に組織変更) を置いた.明治新政府は1872年に弁護士のジョルジュ・ブスケ (Georges Hilaire Bousquet),そして1873年にはパリ大学法学部で教鞭をとっていたボワソナード (Gustave Émile Boissonade) を招聘して法学教育を開始した.

司法省はボワソナードに刑法と民法の法案起草を命じた.そしてボワソナードが起草した罪刑法定主義を規定した草案をもとにして作成された旧刑法と治罪法が1880年に制定され,1882年に施行された[注3].1879年になるとボワソナードは民法典の起草に着手し,旧民法 (財産法の部分はボアソナードによるが,家族法の部分は磯部四郎ら日本人による起草) が1890年に公布されたのだが,家族制度や戸主権をめぐる民法典論争が沸き起こって廃案となった[5a, 5b, 5c].

ドイツ留学経験者の穂積八束は1894年の「民法出でて忠孝亡ぶ」という論文で延期を主張し,まずは法律を施行して修正すべきところは後日修正すればよいとの断行派 (司法省法学校でフランス法を学んだ梅謙次郎ら) との論争が続いた.なお,現在では国会が立法機関であるが,1890年に帝国議会を開設するまでの立法機関は1875年に創設された元老院が担っていた.1898年に施行された現行の民法は,穂積陳重 (穂積八束の兄) を中心とする法典調査会がボワソナードの旧民法を修正したものだが,議論の中心とされた家族法にかかわる部分の根本的な改正は行われなかった.

このように新政府は当初,フランスに倣った西洋式の法制度を日本に導入しようと考えていたのだが,1870年の普仏戦争でフランスが敗退し,ドイツ帝国が成立するとドイツ帝国に倣った国家建設へと舵を切ったようだ.これは岩倉使節団の欧米諸国の調査でビスマルクに感銘を受けた (1873年3月15日の晩餐会での演説) からだと考えられている[注4].富国強兵政策の採用もビスマルクの影響が大きく,明治憲法もプロイセン憲法に倣った枠組みとなったのだ[6, 7].岩倉使節団の当初の目的は不調に終わった不平等条約の改正交渉であったが,新政府の国家建設構想に着想を得たことは大きな成果であった.新政府は考える前に走ってしまったのだが,走ってしまった後には考えたのだ.

ドイツに倣った国家建設を進めるにあたり,教えを受けたのはドイツ帝国法学の権威であるグナイスト (Rudolf von Gneist) とシュタイン (Lorenz von Stein) だ.グナイストは日本が国会を作ったとしても当初は軍備や予算のことには介入させないことが良いと助言し,過度の民主政治は多数専制を導き,国家の土台を突き崩すことになるとシュタインは指摘した[8].鉄血宰相ビスマルクは1862年に議会の決議なしに軍備費の拡大を断行したのだが,1871年に成立したドイツ帝国の議会制度のもとでは政党勢力の台頭に苦慮していた.ドイツ法学に学んだことは,議会の権限を制限した帝国主義である.

憲法制定による国内体制の整備に取り組み始めたのは1880年頃からだった.新政府はまずヘルマン・ロェスラー (Hermann Roesler) を1878年に招聘した.大日本帝国憲法や商法草案の作成を指導するためだ.独逸学協会が1881年9月に設立され,10月の明治十四年の政変によって英国流の議会制民主主義を重視する大隈重信一派を政権から追放し,議会の影響力を弱めた国家体制構築が進められることになる.国会開設の勅諭が発せられたのは明治十四年の政変の直後だ.1890年に国会を開設し,憲法も制定するとの宣言である.

学校教育においてもドイツ法学への転換は進められた.独逸学協会を中心にドイツ法学教育を強化し,フランス法学と英米法の影響力を低下させるのだ.フランス法の総本山・司法省法学校が文部省に移管されて東京法学校と改称されたのは1884年で,1885年には旧東京大学法学部に吸収された.そして主として英米法が教えられていた旧東京大学 (およびその後継としての帝国大学) は,ドイツ留学者の教授就任 (穂積陳重と穂積八束) を通じてドイツ法の受容へと方向転換が進んだ.フランス法学からドイツ法学への転換は新政府の方針であったのだが,帝国大学における教育制度の転換でもあったのは,「国家の需要に応じた学術技術を教授することを帝国大学の目的とする」と帝国大学令第1条に明記されていたからだ.

独逸学協会は1881年に設立されたドイツ文化の移植を目的とする団体である[注5].1883年にドイツ語をもって教授する獨逸学協会学校 (学校設立者は品川彌二郎) を開設し,現在の獨協中学校・高等学校の前身である中等教育課程の普通科を設置した.そして1885年には教頭のゲオルク・ミヒャエリス (Georg Michaelis) を始めとするドイツ人教授を招聘して,高等教育課程である専修科を普通科の上位の課程として設置した[9, 10, 11].専修科への入学を認められたのは普通科において3年間のドイツ語教育を修了した生徒であり,専修科ではドイツ語による法律学や政治学の教育が行われた[9, 10].

ロェスラーが1881年から取り組んだ商法草案は1884年に完成した.この草案を基にした旧商法が1890年に公布されたのだが,第1回帝国議会で施行は延期と決まった[12].そして1893年に会社法・破産法・手形法の部分が先行施行され,1898年になると旧商法の全面施行されたのだが,翌1899年に旧商法に置き換わる新しい商法が公布され,その年に施行となった.新しい商法は,旧商法を日本人 (起草委員は梅謙次郎,田部芳,岡野敬次郎の3名) の手で修正したものだ.

1882年に憲法調査のためにドイツに向かった伊藤博文は,1885年の内閣制度移行に際し初代内閣総理大臣に就任し,大日本帝国憲法を1889年に発布し,1890年に施行した[8, 13, 14].それは1850年に制定されたプロイセン憲法を参考にしたもので,主権者たる天皇は世襲で不可侵とされ,多くの大権を有し,国会の権限は制約され,人権は法律の範囲内でしか保護されないという法律の留保が規定されたものだ.専制主義的藩閥政府が自由民権運動を抑え込む国家像である.

この大日本帝国憲法の起草については,井上毅の乙案・甲案およびロェスラーの3つの原案をもとに伊藤博文,金子堅太郎,伊東巳代治の3名が夏島草案を作成したのだが,貢献が大きかったのは井上毅だ[4, 14].井上はロェスラーとアルベルト・モッセ (Albert Mosse) およびボワソナードへの諮問を通じて2つの原案を作成した[15].そして井上は8月に作成された夏島草案のほぼすべての条文に対する批判意見書を提出し,井上の主張を大幅に取り込んだ十月草案が作成されたのだ[4].なお,ドイツ法学のモッセはグナイストの弟子で,1882年に渡欧した伊藤博文にプロイセン憲法の講義を行い,1886年に招聘されて来日した.

不平等条約の撤廃には近代的な司法制度が必要だ.それには司法判断の基準となる法令の整備,裁判所の設置,裁判官 (判事)・検事・弁護士の養成が必要になる.1872年に初代司法卿に就任した江藤新平は,就任わずか3ヶ月あまりで裁判システムを近代化する「司法職務定制」を策定・施行した[16].西洋式の司法手続き整備のための司法職務定制には訴訟代理人として代言人 (現在の弁護士) を認め,その職務・権限も規定されている[注6].

1876年に司法省は「代言人規則」を制定し,代言人試験に合格した者のみに免許を与える登録制としたが,高額の代言人資格を取らなくても代言人を続けられる例外規定が設けられていたので,1876年の免許取得者は176人に留まり代言業務のほとんどは無免許のものが請け負っていた[17].1880年に代言人規則が改正され,免許代理人は代言人組合への加入を強制された.そのとき全国の免許代理人の数は799名に達していた.人民の権利の伸長に努力する代言人を司法省の統制下に置いて,当時の反政府勢力の自由民権運動と代言人の密接な関係を断ち切ることが狙いだ.代言人試験を司法省の検事が行い,合格した免許代理人を代言人組合に強制加入させ,検事が代理人組合と免許代理人を監督統制する制度である.

1880年には日本最初の近代法として刑法・治罪法が成立し,代言人の資格試験も法実務職に相応しいものに厳格化すると専門知識を有する人材の養成が必要になり,代言人試験の合格を目指す私立法律学校が誕生した.司法省法学校・旧東京大学法学部の卒業者らが日本語で教育する学校である[注7].そして1893年に弁護士法が施行されると免許代言人は弁護士名簿に登録して弁護士になった.

大日本帝国憲法は議会の権限が制限された欽定憲法だ.第55条に記載のように,天皇が国務大臣を指名し,国務大臣は責任をもって実務を行うのだが,その指名は第56条に記載のように,天皇の質問に答え,重要な国の事柄について審議する枢密顧問の進言による.枢密顧問については1888年公布の「枢密院官制及事務規定」に枢密院の構成員の要件と職掌が規定され,国務大臣については1889年公布の「内閣官制」に国務大臣から構成される内閣の首班が内閣総理大臣であると明記されているが,現実には元老の推薦によって内閣総理大臣が選任されていた.

憲法が制定された頃の権力者は伊藤博文や山縣有朋といった元老だったが,伊藤博文が1909年に暗殺され,軍部への影響力の大きな山縣有朋が1922年に病死すると,残る元老は高齢の松方正義 (1924年没) と最後の元老・西園寺公望 (1940年没) となった.

元老が陸海軍を抑えることが難しくなると首相指名に軍の関与が強くなった.これに輪を掛けたのが1935年の天皇機関説事件だ.大日本帝国憲法では天皇に権限が集中していたのだが,天皇の行為には憲法条文による制限があったから天皇の自由は著しく制限される.このような憲法解釈が当時の学会の主流であった天皇機関説だが,この提唱者の美濃部達吉が貴族院・衆議院で政友会によって攻撃された事件である.昭和天皇は天皇機関説を支持していたのだが,1935年に国体明徴声明が出されて天皇機関説が否定され,天皇が統治権の主体であることが明示されると軍部の暴走が加速されることになる.

天皇機関説が否定されれば天皇の意思が国政に反映されることになるのだが,天皇が国政に関与したのは以下の2件とされる[18].1件目は1936年2月26日に始まった二・二六事件に激怒し,青年将校たちを賊軍として鎮圧する命令を下したこと,2件目は1945年8月10日の御前会議で鈴木貫太郎首相が聖断を仰ぎ,天皇は外務大臣の意見に賛成すると述べ,ポツダム宣言受諾案が決議されたときだ.もちろん天皇の個人的意思は法律上の効力を生ずることはなく国務大臣の輔弼を必要とするのだが,一定の影響力はあったとされる.天皇機関説の否定は内閣の権限を弱体化させ軍部の暴走に寄与したのだが,天皇が大日本帝国憲法の規定に縛られずに発言を許されたことは,軍部の暴走に対するささやかな歯止めとして機能したのかもしれない.

[注1] 1870年の春に東京駒場野で行われた天覧演習は,歩兵9聯隊,砲兵6隊,騎兵34騎1万余人にのぼる大掛かりなものであった.演習に加わった部隊の訓練方式は,フランス式が9藩,イギリス式が19藩,オランダ式が10藩であり,イギリス式が最多であったのだが,新政府が1870年の秋に陸軍をフランス式と定めるとフランス式に変える藩が増加した.例外は和歌山藩で,早くも1869年にプロイセン式の軍制改革を進め,藩内の農商民を対象にした徴兵を行い,プロイセンの下士官カール・ケッペン (Carl Cöppen) を雇って本格的な近代軍隊づくりが進められていた[2, 19].1871年にフォン・ブラント (Max von Brandt:プロイセン・ドイツ帝国の駐日公使) が訪問したときに目にしたものは,古い風習を捨て去った生活様式だ.兵営では丁髷を切り捨てた兵士がベッドに眠り,靴を履き,肉を食べていた[2].明治初頭の各藩で採用されていた陸軍の訓練方式はフランス式が必ずしも主流ではなかったのである.

[注2] 当時の文明国とされるイギリス,フランス,アメリカは市民革命を経て成立した.文明国になるために自由と平等を謳う国民主権や個人主義の思想を取り込むことは,尊王を旗印とした戊辰戦争の大義とは異なる思想だから藩閥政府は躊躇したが,文明国を装うファッションとヘアースタイルの変革は急速に進んだ.和装を洋装に変え,丁髷を散切り頭に変えるのだ.1871年に公布された断髪令に強制力はないが,誤解を招いたので1872年に女子断髪禁止令が出され,1873年には明治天皇が散髪した.文明国と認められたのは,1883年に落成した鹿鳴館で文明国をアピールし,大日本帝国憲法が1890年に施行され,1894年に始まる日清戦争と1904年に始まる日露戦争に勝利した頃だ.洋風化した文化の醸成,欧米に倣った法制度の整備,欧米に匹敵する軍事力の強化を進めた日本は,1894年に調印 (1899年発効) された日英通商条約によって領事裁判権を撤廃し,1911年の日米通商航海条約等の締結によって関税自主権を回復した.

[注3] 1880年に制定,1882年に施行された治罪法は,1890年に修正を受けた旧々刑事訴訟法 (明治刑訴法) に差し替えられ,1922年にはドイツ法系の旧刑事訴訟法 (大正刑訴法) が成立,そして1948年には現行の刑事訴訟法が公布・施行された.

[注4] 岩倉使節団は1871年から1873年まで米欧12か国に派遣された総勢107名 (使節46名,随員18名,留学生43名) の使節団で,特命全権大使を岩倉具視,副使官に木戸孝允 (桂小五郎),大久保利通,伊藤博文らが名を連ねた.使節団に強烈な印象を与えたのは1873年3月15日の晩餐会におけるビスマルクの演説である.国際間にあって国際法 (万国公法) のみを信ずるわけにはいかない.その裏付けに軍事力があってこその万国公法であるとの演説は,日本は強国に囲まれた後進国であるドイツとの類似点があり,そこから学ぶことは有益との印象を持ったのだ[6, 20, 21].1877年に木戸孝允と西郷隆盛が没し,1878年に大久保利通が暗殺されて,維新の三傑が姿を消すと,内閣の主導権は参議・伊藤博文に移った.そして,1881年にはイギリス流の民主的な政党内閣を主張する大隈重信が明治政府中枢から追放され,伊藤博文らが主導するドイツ帝国流の国家建設が進められた.

[注5] 獨逸学協会学校は1883 年に開学した[22].ドイツ人が教授する獨逸学協会学校専修科は1885年に設置されたが,五大法律学校 (仏法系の東京法学社と明治法律学校,英米法系の専修学校と東京専門学校と英吉利法律学校の5校) のような日本語で教育する教育機関ではない.そのため,1887年に帝国大学に独法科が設置されるとその位置づけが曖昧になり,専修科が受けていた多額の財政支援は1890年に打ち切られ,1895年に帝国大学独法科に吸収された.外国語で教授する学校の帝国大学への集約が進んでいた時代であった.外国人教師による法学教育はフランス語による明法寮 (1871年に設置,1875年に司法省法学校,1884年に文部省東京法学校),英語による開成学校 (1873年に設置,1877年に旧東京大学法学部),ドイツ語による独逸学協会学校専修科に始まるが,これらは1886年設立の帝国大学に統合され,その後は日本人教師による安価な教育に差し替えられた.教育においてもコストパフォーマンスの向上を目指すならば,まずはコスト低減に取り込むことが常道のようだ.なお,教頭のゲオルク・ミヒャエリスは第一次世界大戦の最中 (1917年),プロイセン首相とドイツ帝国宰相を兼務した.

[注6] 大審院,上等裁判所,府県裁判所を設け三審制で裁判所が司法権を行使するようになったのは1875年だ[17].府県裁判所は1876年に地方裁判所と裁判支庁 (後の区裁判所) に改められ,全府県に裁判機構の設置が完了したのは1877年だ.その後,治罪法の施行が始まった1882年に裁判所の改革が行われ,司法裁判所は大審院,控訴裁判所,始審裁判所,治安裁判所と改称され,特別裁判所としてフランス法に倣った高等法院 (国事犯などを裁く裁判所で,自由民権運動の弾圧を意図した) が設置された.大日本帝国憲法の第57条に「裁判所の構成は法律によって定める」と書かれているが,その法律が1890年に公布された「裁判所構成法」だ.司法省顧問のドイツ人オットー・ルドルフ (Otto Rudorff) の起草によるもので,司法裁判所の構成を大審院・控訴院・地方裁判所・区裁判所と定めた[17].なお,大日本帝国憲法の第60条には特別裁判所,第61条には行政裁判所の言及があるが,特別裁判所とは軍法会議と皇室裁判所のことで,行政裁判所では行政事件が扱われる.

[注7] 日本の法律学校の始まりは司法省に1871年に設置された明法寮 (1875年に司法省法学校,1884年に文部省東京法学校) だ.明法寮ではフランス語で8年学び,卒業者には15年の奉職が義務付けられていた.1873年には開成学校 (1874年に東京開成学校,1877年に旧東京大学法学部) に法学科が設置され,そこでは英米法が取り上げられ,英米人教師による英語での講義が行われていた.この2つの教育機関は1885年に統合され,東京法学校は旧東京大学法学部仏法科に移管された.そして,独逸学協会学校専修科は1895年に帝国大学独法科 (1886年に旧東京大学は帝国大学に改称されていた) に吸収されることになる.近代的裁判制度の運用には,免許代言人 (後の弁護士) として働く法律家の養成が急務であったのだが,帝国大学に代表される官立学校の卒業生数は限られ,裁判官・検察官といった司法官僚の創出に集中し,代言人の供給はまったく不足していた.そこで外国人教師に学んだ学生が日本語での法学教育を始めた.後に五大法律学校 (現在の法政大学,専修大学,明治大学,早稲田大学,中央大学) と称される5校は,1880年設立の仏法系の東京法学社 (1881年に東京法学校と改称され,1886年設立された東京仏学校と1889年に合併して和仏法律学校となる),同年設立の英米法系の専修学校,1881年設立の仏法系の明治法律学校,1882年設立の英法系の東京専門学校,そして1885年設立の英法系の英吉利法律学校 (1889年に東京法学院と改称)の5校である.さらに独法系の独逸学協会学校専修科の設立は1885年,日本の法律を教える日本法律学校 (現在の日本大学) の設立は1889年であり,1886年には関西法律学校 (関西大学の前身) が設立され,慶應義塾大学部には1890年に法科が設置された.法律学校は免許代言人の創出に集中していたのだが,1893年には帝国大学卒業生だけに認められていた判検事登用のための司法省試験の受験資格が,9つの指定校 (関西法律学校,日本法律学校,東京法学院,独逸学協会学校,東京専門学校,明治法律学校,慶應義塾,専修学校,和仏法律学校) にも認められるように司法省令の改正が行われた.

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