サル知恵は人智に及ばず

オランダ・アーネムにあるブルゲルス動物園の野外コロニーでは,チンパンジーの権力闘争が行われていた[1].1971年の開館時にメスが導入され,1973年には4頭のオスが導入された.それ以降のボスはイエルーンだったが,1976年に若いオスが力をつけイエルーンはボスの地位を失った.権力闘争の結果は第1位がラウト,第2位がニッキーで,イエルーンは第3位に降格となったのだ.

そこでイエルーンは第2位のニッキーと連合を組んで,第1位のラウトを追い落とす作戦を実行した.この作戦は功を奏し,1980年にラウトの睾丸を噛みとって殺害に成功したのだ.次にイエルーンはダンディと連合を組んでニッキーを追い込み,1984年にニッキーは堀に落ちて溺死した.老練なイエルーンは肉体の衰えを補う戦略家だったのだ.第1位の適切な戦略は第3位との同盟によって第2位を牽制することであり,第2位と第3位の連合は決して許してはならないのだ.この連合戦略は権力闘争のサル知恵と言えよう.

オリンパスの事業は体温計と顕微鏡から始まってカメラや内視鏡にも拡がったが,粉飾決算を指摘した社長の解任事件は記憶に新しい.巨額の損失を10年以上の長期にわたって隠し続け,その負債を粉飾決算で処理していたのだ.2011年4月にオリンパス社長に就任したイギリス人経営者マイケル・ウッドフォードがこれを調査し,会社と株主に損害を与えたとして菊川剛会長および森久志副社長の引責辞任を促した.しかし,その直後に開かれた取締役会では,ウッドフォードが満場一致で社長職を解任され,菊川が後任に就任した.

ウッドフォードが事の経緯を公表すると株価は急落し,2012年7月6日には金融庁が監査法人に対して業務改善命令を下した.その後,菊川と森は逮捕され,2013年7月に有罪判決が言い渡された.株主代表訴訟では当時の社長菊川剛,副社長森久志,常勤監査役山田秀雄の賠償責任が認められ,賠償金約594億円の支払いが2020年10月22日に確定した.権力者に反旗を翻したウッドフォードが失脚したのは,取締役会での事前の多数派工作を怠ったからであり,サル知恵が不足したからだ.

明を建国した朱元璋が即位後に行った政策は,大商人や大地主の財産を没収して荒地の開拓地への強制移住であり,続いて文字の獄による官吏,知識人の弾圧と功臣の粛清であった.スターリンはレーニンの後継者として権力を掌握すると,自身の指導体制を脅かす可能性のある者たちを次々と排除していった.セルゲイ・キーロフを1934年に暗殺し,トロツキーは国外追放されたのち1940年に暗殺された.地位を脅かす可能性のあるものをことごとく粛清することで,朱元璋もスターリンも天寿を全うした.人智はサル知恵を凌ぐのだ.

このように強権的な権力者が自己防衛をするとき,粛清は効果的な手段である.実際,毛沢東の政策は一説には自国民3000万人を死に至らしめ,スターリン政権下のソビエト連邦は2000万人の自国民を粛清した.ナチスは少なくとも600万人のユダヤ人,300万人のソ連捕虜,200万人のポーランド人,そのほか大量の望ましくない民族を殺戮した.ポル・ポト政権は170万人の自国民を殺害,オスマントルコは1915年から翌年にかけて150万人のアルメニア人を虐殺,ルワンダのフツ族は1994年にツチ族を80から100万人殺し,サダム・フセイン率いるイラクのバース党は10万人のクルド人を殺し,一説によると1937年に日本軍兵士は中国の一般市民を万単位で殺害したと言われている[2].国外勢力が関与しなければ,国内での大規模な粛清は権力者の自己防衛に有効だったことは歴史が証明するところだ.子供向きの漫画や映画で刷り込まれる正義が必ず勝つといった公正世界仮説(Just-World Hypothesis)には事実の裏付けが薄い.

人智を学ばぬものの行く末は悲惨だ.蘇我入鹿は皇位継承の有力な候補者である山背大兄王を殺害したものの,古人大兄皇子の異母弟である中大兄皇子の陰謀によって645年に殺されて権力は蘇我氏から皇族に移った.皇族から権力を奪った平清盛は1160年の平治の乱で敗れた源義朝とその長男義平を処刑したが,三男頼朝と九男義経兄弟は殺さなかった.しかし,この兄弟はこの寛大な処分に報いることなく,平氏を討ち滅ぼして鎌倉幕府を開いたのだ.

その鎌倉幕府も後醍醐天皇の反乱(元弘の乱)に対しての処分は寛大であり,1332年に隠岐島に流された後醍醐天皇は,1333年に脱出して挙兵し鎌倉幕府を滅ぼすことになる.織田信長は腹心の明智光秀の謀反によって1582年に殺害された.彼らは朱元璋やスターリンの知恵を実践できなかったので殺害されたようだ.賢かったのは中大兄皇子だ.その即位は皇位継承の有力候補者である古人大兄皇子や有間皇子を死に追いやってからのことだった.頼朝も戦功をあげて声望の高い義経を自害に追い込み,家康も地位を脅かす可能性のある豊臣秀頼を殺害することで権力基盤を強化した.

ブルース・ブエノ・デ・メスキータ(Bruce Bueno de Mesquita)はニューヨーク大学政治学部の教授である.指導者が権力を維持する仕組みについて「独裁者のためのハンドブック」に書いたことは,権力支持基盤理論(Selectrate Theory)である[3].独裁者の支配を支える人々を,(a)独裁者の盟友集団,(b)影響力のある者と,(c)取り替えの利く名目的な有権者の3つの層に分類することから始まる.この盟友とは与党や軍の幹部,閣僚,企業の取締役などで,盟友集団が小さければ私的な見返りを与えて権力基盤を安定させる専制的な支配に,盟友集団が大きければ彼らの望む政策を実現することで支持を繋ぎ止める民主的な支配に傾く傾向がある.そして,リーダーが成功するために使える基本的ルールとして掲げたものは

1.盟友集団はできるだけ小さくせよ

2.名目上の集団はできるだけ大きくせよ

3.歳入をコントロールせよ

4.盟友には忠誠を保つに足る分だけ見返りを与えよ

5.庶民の暮らしをよくするために盟友の分け前をピンハネするな

の5つである.このルールは政治的生き残りを賭けた支配についての考察から導き出したものだが,著者の意図は独裁を終わらせる方法についてのメッセージだ.独裁によって被る苦難を終わらせるために,支配者が支配されるルールを学ぶのだ.

朱元璋やスターリンはメスキータの理論をどのように評価するのだろうか.最も肝要な粛清が欠け落ちたサル知恵以下と酷評するであろうか.サル知恵は人智に及ばずとの発想は個人の自由を尊重する民主主義には馴染まない.

文献
1) フランス・ドゥ・ヴァール,チンパンジーの政治学,産経新聞出版 (2006).
2) フィリップ・ジンバルドー,ルシファー・エフェクト ふつうの人が悪魔に変わるとき,海と月社 (2015).
3) ブルース・ブエノ・デ・メスキータ, アラスター・スミス,独裁者のためのハンドブック,亜紀書房 (2013).

(岡田 明)

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