明治神宮の「さざれ石」と我が家の「石ころ」

明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする明治神宮は1920年の創建だ.かつて武蔵野の代々木野といわれていたその場所は,肥後藩主・加藤忠廣の別邸であったが,1640年から彦根藩主・井伊家の下屋敷となり,それを1874年に明治政府が買い上げて皇室所有の南豊島御料地となった.

明治神宮御苑は原宿駅近くの一の鳥居をくぐり抜けた先を進んだ左手にある.江戸時代から加藤家・井伊家の下屋敷の庭園だったところだ.明治天皇はそこに隔雲亭という茶屋を建て,昭憲皇太后が時々釣りを楽しんだと言われる南池にはスイレンが植えられている.明治天皇はハナショウブ(江戸種)を植え,回遊歩道を設けて美しい庭園とした.加藤清正が掘ったとされる清正井は豊富な水量を誇る水源だ.菖蒲田を経由して南池に流れ込む.

南参道入り口の一の鳥居
明治神宮御苑の南池とスイレン
明治神宮御苑内の隔雲亭
明治神宮御苑の菖蒲田
明治神宮御苑の清正井
三の鳥居から本殿に向かう
南神門
外拝殿
西玉垣鳥居とその奥の西神門
1921年竣工の 宝物殿
宝物殿前の芝地と亀石と北池
宝物殿前の芝地に置かれたさざれ石

三の鳥居と南神門をくぐった先にあるのが外拝殿だ.拝殿もその奥の本殿も戦災で焼失し,1958年に復興したものである.西神門を出て北に向かえば,宝物殿に至る.1921年に建てられた宝物殿は明治天皇と昭憲皇太后ゆかりの品の収蔵・展示施設だ.宝物殿の前には芝地と北池が拡がり,芝地に「さざれ石」が置かれている.

説明板には,「さざれ石」は大小の石灰岩の角礫が集まったもので,学名を「石灰質角礫岩」という.もともと小さな石,「細石」の意味だが,長い年月をかけて雨水などに溶けだした石灰分が沈着し,小石を凝結して少しずつ大きくなってできる.この石は1962年に岐阜県揖斐郡春日村の山中で採取され奉献されたと書かれている.

「君が代」に歌われている「さざれ石」は本来「細かい石」あるいは「小さい石」という意味の普通名詞である[1].「君が代は千代に八代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」の歌[注1]は平安時代中期の「和漢朗詠集」に収録された[2, 3].この歌にメロディーがつけられたものが,1893年の文部省告示によって学校での儀式の際に用いる歌曲となり,1999年に「国旗・国歌法」が成立して国歌となった.そして「さざれ石」が普通名詞から「君が代」に歌われる特定の岩石を意味するものと解釈されるようになると,各地に「さざれ石」を称するものが出現した.

各地の「さざれ石」は少なくとも4つのタイプに大別されると考えられている[1].

(1) 層状チャートの岩塊:京都・嵯峨野(右京区鳴滝音戸山町)の入亀山にある岩塊など.

(2) 玄武岩質凝灰岩(ミクライト質石灰岩の小さな角礫を複数含む):広島市福王寺に寺宝として伝わる美しい石で,京都の北山を構成する丹波帯の竜眼石だと考えられる.

(3) 石灰質角礫岩:1962年に地元の水石愛好家・小林宗一氏によって提唱されたもので,その岩塊は全国の神社等に贈呈された.そして岐阜県春日村の「さざれ石」の産地には「さざれ石公園」が開設され,岐阜県天然記念物にも指定されて,春日村の村おこしの重要な素材となっている.明治神宮にある「さざれ石」は岐阜県春日村の村おこしの一環として全国に寄贈されたものの1つである.

(4) 水石愛好家の称する「さざれ石」:石灰質角礫岩,ホルンフェルス(原岩が泥岩やシルト岩の変成岩),玄武岩質角礫岩,マンガンノジュール(マンガン団塊),変性玄武岩,石灰岩や風化した花こう閃緑岩など多種多様であるから共通の特徴を読み取ることは困難である.

平安時代の歌人が「さざれ石」にどのような意味を込めたのかは明らかではないが,「さざれ石」が古来の石成長の伝説とすれば,水石として愛好されている美しい石が相応しいだろう[2].溝口貞彦氏によれば,「君が代」の元歌は挽歌であり,「微塵を積みて山と成す」との格言を歌語に置き換えたのが「さざれ石の巌となりて」とされる[3].「さざれ石」は霊石と捉えるべきで,それが集積して巌(霊岩)となり苔となって再生する再生思想の表現だとしている.しかし,堆積物から堆積岩への地質学的な変化過程と捉えれば,礫岩は最有力候補だ.礫岩が歌に詠まれるほど美しい石であるかについては甚だ疑問が残るが,石灰質角礫岩の成り立ちは「さざれ石」の地質学的解釈と整合性がある.

「さざれ石」のような石ころ
我が家に転がる他の黒い石ころ
我が家に転がる他の石ころ

「さざれ石」が礫を含む堆積岩ならば,我が家にも転がっている.採集されたのは恐らく1931年以前のいつかだ.岡田家武が全国各地で採集した岩石サンプルを木箱に入れたまま実家に預けてそのままになったものだと言われている[注2].そのほとんどは散逸したが,いくつか残っているもののなかに「礫岩」らしき石ころが再発見されたのだ.採集者がこれを本当に採取したものか,別の石ころが紛れ込んだものかは定かではない.また,この石ころが「礫岩」であるのか「出来損ないのコンクリート」であるかも定かではない.

我が家に転がっている「さざれ石」のような石ころを町おこしの素材に使えないだろうか.他の石ころに比べて美しさに乏しいことが「さざれ石」のような石ころに際立つ特徴だ.

[注1] 「君が代」の元歌は905年に撰集された「古今和歌集」巻7に収録されている.「詠み人しらず」の「わが君は千世に八千世にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」あるいは「わが君は千世にましませさざれ石の巌となりて苔のむすまで」など伝本によってバリエーションがある.1013年頃に編纂された「和漢朗詠集」に収録された歌は「君が代は千代に八代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」と文頭が変更されている.元歌では「君が代」ではなく「わが君」となっているのだ.金子元臣によれば,この「わが君」は天皇を指すものではなく,二人称の代名詞だ.当時は天皇を指すときには君ではなく大君が使われていて,君が天皇を指して使われるようになったのは明治以降とされている[3].

[注2] 岩石サンプルを採集した時期は不明だが,岡田家武が1916年に進学した東京府立第四中学校に在学中,全国を無銭旅行して鉱物を収集したことが伝わっている[4].岡田家武は1926年に大学院に進学し,1928年には中国遼寧省長春市の北西200キロメートルにあるダブスノール塩湖で調査を行ってゲーリュサイトを発見し.1929年に「地球化学」を著した.そして1931年に上海自然科学研究所に赴任し,1970年に他界した.1935~6年頃には帰国していたようだが,岩石サンプルはそのまま置き去りにされたらしい.国内で採集されたのならば,1916年から数年間の時期の可能性が最も高く,遅くとも1920年代であろうし,それ以降に中国から持ち帰った可能性(上海自然科学研究所に勤務していた時期に,実際に中国でも採集旅行に出かけていた)は低いだろうが,完全に否定はできない[5].採集時期に関する記録は残っていないものの,おそらく大正時代に採集されたものだ.

文献
1.鈴木博之,「さざれ石」の由来と地質学的考察,地球科学,57 [4] 243‒252 (2003).
2.鴨井幸彦,「君が代」の一節「さざれ石の巌となりて」の地質学的解釈について,地学教育と科学運動, 90 71-74 (2023).
3.藤田友治,「君が代」の起源,明石書店 (2005).
4.八耳俊文,岡田家武の江戸化学史への関心,青山学院女子短期大学総合文化研究所年報,14 55-76 (2006).
5.八耳俊文,地球化学を生きた人:岡田家武,サイエンスネット,30 6-9 (2007).

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