歴史と史跡とエトセトラ

歴史と史跡とエトセトラ
北の丸公園とその界隈

江戸城北の丸のあったところが北の丸公園になった.田安門と清水門は旧江戸城の現存する遺構だ.田安門は靖国通りに面した北側の位置にある.1620年に建築され,1636年に修繕されたものが現在に伝わっている.その高麗門は現存す […]

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江戸城跡を散策する

江戸城は1457年に太田道灌によって築かれ,北条氏が滅亡した1590年に徳川家康の居城となった.それ以来,家康,秀忠,家光の3代にわたって西の丸(現在の皇居),北の丸の増築や外郭の整備が行われて江戸城の総構が完成した.明 […]

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鎌倉幕府の旧跡碑めぐり(その4)

由比若宮は1180年に鎌倉入りした頼朝が遥拝したところだ.前九年の役で奥州を平定した源頼義が1063年に石清水八幡宮を由比ガ浜に勧請したことに始まるが,その後,源頼朝が現在の鶴岡八幡宮に遷したので,元八幡とも称される. […]

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鎌倉幕府の旧跡碑めぐり(その3)

源頼朝が没すると実権は鎌倉殿となった源頼家の専制支配ではなく北条時政ら有力者の合議制に移行した.十三人の合議制は1199年4月に発足したが,1200年には解体となった.13人の有力者のなかの梶原景時が1199年に失脚し, […]

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鎌倉幕府の旧跡碑めぐり(その2)

大蔵御所が焼失した1219年から1225年までの間は将軍不在の期間だ.仮御所が北条義時の邸宅の南側にあり,その邸宅は二階堂大路の東側とされるが,正確な位置は不明だ.なお,二階堂大路は六浦道(金沢街道)から分岐して永福寺へ […]

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鎌倉幕府の旧跡碑めぐり(その1)

鎌倉の史跡観光には旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)が有用だ.大正時代から昭和初期にかけて設置された石碑で,そのうち70か所を今でも見ることができる.これは1921年までは鎌倉町青年会,1922年以降は鎌倉町青年団が建立したもの […]

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横浜のバラ園と港を散策する(後編)

大さん橋の近くには1854年に日米和親条約が締結された開港広場公園と1981年に開館した横浜開港資料館がある.開港広場公園にある日米和親条約締結の地の石碑とプレートは横浜市観光協会によるもので,柱は横浜市教育委員会が建て […]

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横浜のバラ園と港を散策する(前編)

元町・中華街駅の改札を出てエレベータで屋上まで上がれば,そこは2012年開園のアメリカ山公園だ.公園にはバラが咲き乱れ,元町貝塚があったことを示す解説板も設置されている.その公園を通り抜け,外人墓地の脇の道を昇ると横浜地 […]

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襲撃現場の確認を兼ねて散歩する

大日本帝国陸軍内には統制派と皇道派の2つの派閥があった.前者は陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現するという合法的な形で列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指す陸軍大学校出身者を主体とするもので,後者は天皇親政の下で […]

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暗殺現場の確認を兼ねて散歩する

犬養毅は1932年に9名の海軍将校らの一団に銃で撃たれて殺害された.殺害現場となった内閣総理大臣旧官邸は1929年の竣工で1936年までに6代の歴代総理(田中義一,濱口雄幸,若槻禮次郎,犬養毅,齋藤實,岡田啓介)が入居し […]

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